2019年の箱根駅伝で青学大、東洋大を退け、優勝のゴールテープを切った郡司陽大。栃木県の高校から東海大に進み、黄金世代とともに入学したアンカーが振り返る栄光、挫折、そして復活の物語――。(Number Webノンフィクション全3回の第1回)

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 2019年、第95回箱根駅伝のゴール。両手でガッツポーズをして、東海大初優勝の喜びを全身で表したものだ。この写真の主役は、東海大の「黄金世代」と言われたひとり、郡司陽大(あきひろ)だ。3年生でアンカーの大役を担い、トップで襷を大手町に持ち帰って来た。

「あれ、覚えていますよ。でも、最近までは優勝なんてしなきゃよかったと思っていました」

 大学時代よりも少しふっくらした郡司は、伏し目がちにそう言った。

4年間、頑張ったなで終わるんだろうな

 郡司は2016年に東海大に入学した。

「僕らの代は、すごかった。鬼塚(翔太)、関(颯人)、館澤(亨次)、羽生(拓矢)は、高校時代から目立っていて、名前を聞くだけでビビっちゃう感じでした。同級生で憧れなんておかしいと思うけど普通に憧れていましたね。実際、ただただ速いし、強い。一緒に走っていると、僕が届かない距離のまま彼らは伸びていくんだろうな。僕は『駅伝を走れないまま4年間、頑張ったなで終わるんだろうな』って思っていました」

 東海大には、郡司の代のエリートが引き寄せられたかのように多く集まり、のちに「黄金世代」と称された。郡司も高校ではエースだったが、1年目は関たちとのレベルの違いを感じ、彼らの勢いに圧倒された。2年目も強い上級生と同期のなかに埋もれ、自分らしさを発揮できなかった。3日間で150kmを走るなどして臨んだ3月の学生ハーフは、65分20秒、56位に終わり、シーズンを終えた。1年の西田壮志が63分36秒で3位に入ったのとは対照的に精彩を欠き、レース後、郡司は両角速監督に呼び出された。

「おまえ、ここから変わらないとダメだぞ。今年が勝負だからな」

一皮むけたな。これからしっかりやっていくぞ

 そう言われたが、郡司は最初ピンとこなかった。

「チームには強い選手がたくさんいるし……でも、勝負と言われているんだから勝負なんだろうなって思い、日々の練習や先生の言うことをやっていこうと」

 チームの練習メニューをこなし、個別での練習もやり遂げた。その成果が見えたのは、3年時5月の仙台国際ハーフだった。2kmで先頭集団から離れたが徐々に追いつき、15kmで実業団の外国人選手が飛び出すと郡司もついていった。63分23秒で総合4位。レース後、両角監督からは「一皮むけたな。これからしっかりやっていくぞ」と言われた。

「先生に、そう言われた時は親に褒められた時よりも嬉しかったです。ただ、自分のなかでは競技力がついたとかはよく分からなくて。この時もこれで駅伝に行けるとは思えなくて、とりあえず目先のことをひとつひとつクリアしていこうという感じでした」

なんで、お前が泣いてんの

 夏合宿は、主力メンバーが故障しており、郡司が引っ張っていく役割を任された。チームを先頭でリードしていくと両角監督から「よくやっている」と言われた。出雲駅伝組中心の3次選抜合宿では、初めて駅伝が視界に入った手応えを感じた。

「この頃は、出雲の6人のなかに入れるかなって思っていたのでめちゃ練習、頑張っていました。兄貴(貴大・駒澤大卒)は箱根には出たんですけど、出雲と全日本は走っていないので両親を出雲に連れて行ってあげたかった。それに出雲に出ることは、僕にとってすごく価値が高かったんです。東海は大学でナンバー1のスピードチームで、そのなかで出雲の6人の枠に入れるのはすごいことだと思っていたので」

 郡司は、出雲駅伝5区3位で駅伝デビューを果たし、チームは3位になった。前年は関がアンカーを走って優勝し、ゴール付近で泣いていた。先輩の川端千都に「なんで、お前が泣いてんの」と言われたが、一緒に練習して、同じご飯を食べてきた仲間が勝ったことがうれしかったのだ。だが、自分が走った出雲で勝てず、全日本では6区2位と快走も後続が青学大に抜かれ、2位になった。

「みんな、ゴール前で待っている間、普通に喋ったりしているんですけど、僕はそういう気持ちにならなかったです。もう悔しくて、悔しくて……」

先生の顔がマジで般若だった

 箱根駅伝では、優勝したいという気持ちがメラメラと燃えたぎった。

 12月上旬、郡司は膝痛でチームから離脱した。箱根に向けて夜、暗い場所を走っている時、側溝に落ちて膝を痛打した。しばらく我慢していたが、痛みがひどくなった。

「先生に言いにいったら、もう烈火のごとく怒られて(苦笑)。その後、合宿に行く予定だったんですけど、僕は治療院の先生と相談して行くのをやめたんです。それを伝えた時の両角先生の顔がマジで般若で、頭から角が出ていました。『あーもうこれで箱根のメンバー入りもダメだな』と思いました」

みんなのイジりが優しいな

 だが、郡司が出雲と全日本で見せた安定感のある走りは、東海大にとって欠かせないものになっていた。両角監督は郡司に期待しているがゆえに不注意で起こした怪我を怒ったが、内心では主力のひとりとして考えていた。

「16名のメンバーが発表されて、そのメンバーとスタッフで食事に行くんですけど、その場で先生に『おまえは16番目だからな』と言われたんです。その時、みんなが明るく、『おまえ、16番目かよ〜』とイジってくれて。僕は正直、少しへこんでいたんですけど、それで救われました。みんなのイジりが優しいなと思いましたね」

10区と知った瞬間、脳がピリピリしました

 この頃、区間配置は、まだ一部の区間しか決まっていなかった。

「競合していた小松(陽平)の調子が上がっていましたし、先生から何も言われていなかったので難しいかなと思っていたんです。でも、区間配置の日かな、小松がいきなり部屋に来て、『何、落ち込んでんだよ』って言われたんです。『なんだよ、こいつ、箱根走れるからって調子に乗ってんな』と思ってむかついたんです。そうしたら『俺は8区になったんで、お前、10区だから頼んだよ』って言われて。その瞬間、脳がピリピリしました。そこで初めて10区というのを知ったんです」

当日朝、靴を履き間違える

 郡司は、小松の報せに確信を持てなかった。前年の箱根の10区は故障上がりの川端か絶好調の湯澤舜の二択だったが、指揮官の選択は前者だった。今回も同じ流れでネームバリューのある関や阪口竜平らを最終的に使うのだろうと思っていたのだ。

「最終的に先生から『お前の調子が上がっていくのを見ていた。10区を頼む』と言われた時は、すごくうれしかったです。ただ、僕はチキンハートなので、その日からずっと緊張していました。復路の選手は往路の当日の朝に集合して軽く練習するんですけど、僕は普段履きのシューズで行って、『おまえ、大丈夫か、落ち着け』ってみんなに言われて(苦笑)。練習を終えて寮でテレビを見ていたんですが、青学に先行して東洋に次いで往路2位になった時はめちゃくちゃ盛り上がりました。1分14秒差なら優勝あるぞって」

前の白バイだけ見て走れ

 翌日、復路がスタートし、8区の小松が区間新の走りで東洋大を逆転してトップに立ち、9区の湊谷春紀に襷が渡った。10区で準備をしていた郡司は周囲を見渡すと東洋大の選手は落ち着きがなく、ガチガチに緊張していた。

「東洋の選手の顔を見た時、湊谷さんが東洋と同着で来ても勝てると思いました」

 出走する前、両角監督から「声援がすごいので道路の真ん中を行け。前の白バイだけ見て走れ」と言われた。

「たぶん、監督は声援がすごいし、沿道に人が多いので周囲を気にしてしまうと緊張して上がってしまうから心配して声を掛けてくれたんだと思います。でも、自分のペースで走れましたし、六郷橋かな。降りていく先を見ると、ものすごい人で、『郡司、頑張れ』とか、『東海優勝だ。行けー』とか、たくさん声をかけてもらって。なんか、俺、ヒーローみたいじゃんって思って走っていました」

沿道の母から「陽大!!」

 気持良く走っていると、「陽大!!」という母の声が聞こえた。どんなに人が多くても家族の声が聞こえるというのは駅伝あるあるだが、郡司もそれを実感した。兄や父や親せきは、「郡司豚」(豚肉の生産・加工販売を行う実家の銘柄豚)という幟(のぼり)を立てて応援していた。

 残り5kmになると両角監督から「ここから最後までしっかりつめていくぞ」と声がかかった。実は、前回の箱根で東海大はここまで3位だったが、川端が低体温症になり、5位に順位を落とすという苦い経験をしていたのだ。郡司は、その声を聞きながら「あともうちょっと」と自分を励まし、ゴールを目指していた。

寺田交差点は「確かに分かりづらい」

「ゴール地点の太鼓の音がどんどん大きくなっていくんですけど、僕、ちゃんと道を覚えていなくて。寺田交差点ってあるじゃないですか。あそこ、確かに分かりづらくて、白バイにつられてついて行くとヤバいです。間違えます(苦笑)。僕は、白バイがはけてくれたおかげでゴールが見えたんです。ゴールポーズなんかしないといけないとか思っていたら、あっという間にゴールで、なんか自然にやっちゃいました(笑)」

 それが力強いガッツポーズでゴールテープを切った郡司の勇姿だった。

 ゴールすると両角監督と西出仁明コーチ、チームメイトが顔をぐしゃぐしゃにして喜んでいた。それを見られたことが優勝よりもうれしかった。 

 郡司にとって、陸上人生最高の瞬間だった。

<つづく>

文=佐藤俊

photograph by Yuki Suenaga