2023年12月1日、広島・竹原高校の監督を務めていた迫田穆成(さこだ・よしあき)氏が亡くなった。

 名門・広島商の主将として、1957年夏の甲子園で優勝。その後、67年秋から母校を率い、春夏計6度の甲子園出場、73年夏は同校5度目の全国制覇を達成するなど、中国地方が誇る名将であった。

 迫田氏を語る上で欠かせないのが、73年春のセンバツでの一戦。「怪物」江川卓と対した準決勝だ。

あの「怪物」をいかに倒したか

 大会前から「江川卓」の名が全国区になるほど、実力は抜きん出ていた。

 だが迫田氏は新チーム発足間もないころから「怪物に甲子園で勝つ」と目標を設定。映像も簡単に手に入らない時代だ。人伝いに聞く断片的な情報から怪物の面影を描くしかなかったが、選手たちは奮い立ち、センバツ準決勝で江川擁する作新学院と顔を合わせる。

 念願の対決が始まると、江川を前に迫田氏を含め、全員が押し黙った。怪物が放つ速球に圧倒されたのである。

 だが、「打倒・江川」に燃えてきた選手たちは、3回が終わるころに「勝つぞ」との声を上げる。機を逃すまいと、迫田氏が叫ぶ。

「今日、ワシらが伝説を作るんじゃ!」

 指揮官の咆哮を意気に感じた選手たちは、怪物の快速球に食らいつく。相手のミスにも助けられ、2−1で競り勝った。

 今から約4年前、ある雑誌で迫田氏の監督人生を取材した。その際、この試合の山場について質問したときの一幕が忘れられない。

 同点で迎えた8回、先頭で出塁した主将の金光興二が二盗を成功させた。さらに2死一、二塁から、ダブルスチールを敢行。捕手の三塁送球が逸れ、決勝点を生み出す……というプレーで、この采配の意図を尋ねたときだった。

「ベンチで、二塁にいる金光と目が合いましてね。『もう一つ走れる』というような眼をしとったんです」

指導者を見抜く…卓越した「目」

 40年以上前の試合を、昨日のことのように述懐する姿に驚かされた。幾度も取材を受けて状況が整理されていたであろう作新学院戦に限らず、迫田氏の野球の記憶は常に鮮明だった。自身の心境、選手の表情、観衆の反応。味のある広島弁で紡がれる言葉は、過ぎた試合を鮮やかに蘇らせた。

 以降も、“奇策”に見える作戦が成功したり、抜擢した選手が結果を出す起用は“マジック”とも形容された。日ごろの練習から選手をつぶさに観察し、超人的な記憶力で各人の特性を把握する――。観察眼と経験の記憶の両輪で生み出される慧眼は、まだ日の目をみていない指導者を見出す際にも発揮された。

「迫田監督! 今年のチームどうですか?」

 おかやま山陽を率いる堤尚彦は、食い気味に尋ねた。

 時は2016年7月。前監督が迫田氏率いる如水館と懇意だった縁から、06年に自身がチームを引き継いでからも、夏前の最終調整段階で必ず練習試合を組んでいた。

 堤は、このチームに大きな自信を持っていた。夏の前哨戦とも言える春の岡山大会で優勝。不祥事で前監督が解任され、崩壊寸前だった野球部を引き継いで11年目。高校野球の指導者経験を持たない中での奮闘が、実を結び始めていた。

 夏前に最終確認として、甲子園を熟知する名将に仕上がりを尋ねた。しかし、迫田氏の返答は、堤が予想していないものだった。

「(甲子園に)届かないね〜」

 苦笑しながら率直な思いを述べる名将に、堤は理由を求めた。半袖のアンダーシャツからのぞく、こんがりと日焼けした堤の腕を指さし、迫田氏が続ける。

「これじゃあ、夏まで選手の体力がもたないよ」

 初夏の段階で監督がこれだけ日焼けしているということは、選手たちは相当な練習量をこなしているはず。これでは、暑さが本格化し、連戦を強いられる夏の大会で“ガス欠”を起こす……という指摘だった。

翌年は…「おめでとう! 決まりです」

 迫田氏は、「夏の県大会開幕の約1カ月前から練習時間を半分に減らす」調整を確立していた。過酷な夏に向けて体力を温存するだけでなく、「もっと野球がしたい」という“飢え”を引き出す狙いだ。それと真逆の調整を進める堤へ忠告したのだ。

 結果は、夏の岡山大会準決勝敗退。春制覇の原動力だった左腕エースが軸足の甲を疲労骨折するなど、夏前の追い込みがあだになった。迫田氏の見通しが、見事に的中した。

 新チーム発足後、堤が名将の金言を胸にチーム作りを進めると、翌2017年夏の如水館との練習試合で、迫田氏が満面の笑みで握手を求めた。

「おめでとう! 決まりです。監督も日焼けしすぎていないし、選手もバットが振れているし、いいですね〜」

 そして、堤にとって3度目の甲子園出場となった23年夏。初勝利に止まらず、8強に食い込んだ。快進撃を見せたチームにも、迫田氏は“ある予言”をしていた。3月の練習試合でのことだ。

「硬いね〜」

 目の前では、おかやま山陽ナインが軽快にノックの打球をさばいている。堤は、すぐには言葉の意図が理解できなかった。真意に気づいたのは、甲子園にたどり着いてからだ。

「初戦でサードとレフトが連続エラーしたのを皮切りに、4試合でエラー10個。『ノックは中国地方で一番だけど、甲子園で同じように守れる選手たちではない。硬くなるよ』という意味だったんです」

 衰え知らずの千里眼に、ただ感服した。

「きみ、絶対甲子園行くから…頑張れよ」

 迫田氏は75年に広島商の監督を退任した後、93年に三原工、現在の如水館の初代監督に就任。創部5年目の97年夏に初の甲子園に導くと、春夏計8度の出場を誇る強豪に育てた。

 語られる機会は少ないが、広島商の監督退任から如水館に転じるまでの間、社会人野球の監督を務めた過去がある。山口県宇部市に本社を置く五大化学の野球部「五大化学クラブ」を率い、88年の全日本クラブ選手権優勝などの結果を残した。

 その時代にも、ある駆け出しの指導者を見出した。現在は南陽工を率いる山崎康浩である。

 時は90年。教員となったばかりの山崎が下関中央工(現・下関工科)を率いて3年目の夏の大会直前だった。

 よく晴れた夏の日。厳しい夏の暑さを和らげようと、下関球場での練習試合前のシートノックを終え、球場外の手洗い場で顔を洗っていると、背後から「こんにちは〜!」と声をかけられた。迫田氏である。

「さっきのノック見とったんですよ。きみ、絶対甲子園行くから。頑張れよ」

 当時の下関中央工は初戦敗退の常連。試合で負ける度、あの出来事は幻だったのではないかと、疑心暗鬼に陥った。

 そんな時、決まって取り出すのは激励とともに手渡された名刺だった。「五大化学クラブ 監督 迫田穆成」と印字されている長方形の厚紙が、かろうじて現実味を持たせてくれた。

 数年後、迫田氏の予言は現実に近づいていく。山崎の下関中央工は、94年を皮切りに3度、夏の山口大会の決勝に進出。そして、南陽工に異動した06年夏、念願の甲子園出場を果たした。

 球場を引き揚げると、優勝報告会などの行事が立て込む。喧騒を抜け出した山崎は、誰もいない会議室に駆け込み、迫田氏に電話をかけた。出場の報告と、かつての激励への礼を述べるも、返答は簡潔だった。

「そりゃそうでしょう。遅いくらいよ」

 山崎が甲子園に行くのは当然のこと。迫田氏の素っ気なさは最大の賛辞だった。

受け継がれる野球観…「あの名将の登場」

 自分のどこに“甲子園”を見出したのか。山崎は最初、全くわからなかった。だが、指導者としてキャリアを重ねたことで、「勝つ人」がおぼろげながら理解できた。その見立てを確信させる出来事が、07年にあった。

 南陽工のOBから「練習試合をしてもらえないか」と懇願された。何でも、大学時代の先輩が指導者になったが、部員数はギリギリで対戦相手を探すのに苦労している、と。申し出を受け入れ、迎えた練習試合当日、30代前半の青年が現れた。

「今はまだこんな状況ですが、甲子園に行きたいと思っています」

 真っすぐに語る青年に対し、反射的に返答した。

「あなたは絶対チームを強くする。甲子園に行くよ」

 青年は山崎の予言通り、廃部寸前だった野球部を鍛え上げ、10年あまりで甲子園初出場を叶えた。それから5年後の2022年、ついには下関国際を甲子園の決勝にまで導いた、坂原秀尚である。

 坂原から発せられる「勝ちたい」思いは、甲子園に出る人間のそれと同じだった。同時に、あの日の迫田氏は、自分から同じものを感じ取ったのだと腑に落ちた。

 山崎は1月から、迫田氏の娘から譲り受けた生前の写真を監督室の机に置いている。笑顔で額に収まる恩師を見やり、山崎が回顧する。

「迫田監督は、夢を一つ一つ現実にしていく名人だったんです。夢を夢で終わらせない人、生粋の“夢追い人”でした」

「ワシが言うたらほんとになるけんね」

 じゃんけんやゴルフで負けても顔をしかめる生来の負けず嫌い。誰よりも「勝ちたい」と思い、勝つための理想形を描き、実現させてきた。

 訃報を聞いたとき、私は迫田氏が竹原の監督となって3年目の2021年秋の電話を思い返した。その電話で私は、迫田氏に「次に甲子園に出ると思う指導者はいますか?」と投げかけた。

 少し考えた後、岡山のある若手指導者の名前を挙げた。

「最近、目が変わってきたんです。面白いと思いますよ」

 もう少し時間はかかるかもしれないが、遠くない内に。そんなニュアンスを感じる語り口だった。詳しい理由も聞きたかったが、向こうからもらった電話で長々話すのも気が引け、電話を終えた。

 その慧眼で後身のどんな未来を見通したのか。自身は指導者として、最後にどんな夢を描いていたのか。

 もっと聞きたかった、聞いておけばよかったという後悔と同時に、下関球場の手洗い場で、戸惑う山崎に別れ際に言ったという挨拶が頭をかすめる。

「ワシが言うたらほんとになるけんね、じゃあね」

 もう一つの“予言”を聞かせてもらった者として、見出した理由を考え続けていきたいと思う。

文=井上幸太

photograph by Kazuhito Yamada