あなたの生活は、スマートウォッチに支配されていないだろうか?

 私はだいぶ支配されている。

 1日に60分は活動するようにして黄色のリングを完成させ、1時間に一度、あまり必要もないのに、立ち上がって1分ほどウロウロしたりする。赤いリングを効率よく閉じるために、走ることもしばしばだ。

 ジョグに関しても、スマートウォッチにだいぶ影響されている。私は1キロあたり5分から6分程度のジョグしかしないが、「今日は5キロ走ろう」「30分は走らないとな」と時計を頼りにする。もちろん、1キロごとにラップも教えてくれる親切設計である。

 自分の努力を認めてくれるのは、スマートウォッチだけである。

学生ランナーと「時間」

 1月は箱根駅伝について考えることが多い。陸上に打ち込む学生たちは、「時間」に人生を侵食されている印象を受ける。

 朝練習のジョグでは走行時間に加え、1キロをどれくらいのスピードで走るかも問われる(青山学院の選手のなかには、朝から1キロ3分20秒で押す選手もいると聞いてたまげたことがある)。

 また、週に2、3度のポイント練習では設定通りのタイムで走ることが求められる。この練習で、陸上用語でいうところの「タレる」、設定タイムから遅れることにでもなったら、それは選手選考に大きな影響を及ぼす。

 そして記録会ではターゲットタイムが設けられ、選手たちは自己ベストを更新すると笑顔を見せる。

原監督が即答「設定タイムなんて意味ないよ」

 一方、箱根駅伝本番で「時間」や「設定タイム」から解放される学校がある。

 青山学院大学だ。

 1月3日の優勝会見の席上、箱根での設定タイムについての質問が出た。

 ほとんどの大学では、監督が区間ごとの「設定タイム」を作る。練習の成果から実力を割り出し、「だいたいこれくらいのタイムで走れる」という目安を出すのだ。選手もそれを基準にしてラップを刻んでいく。それはひとつの安心材料であり、調子を計る要素のひとつでもある。

 しかし、この質問に答えはないなと気づいた。

 青山学院には、箱根駅伝においては設定タイムが存在しないからだ。

 以前、私も原晋監督に同様の質問をしたことがあった。ところが、監督は即座に「設定タイムなんて意味ないよ」と答えたのだ。不思議に思って、なぜかを問うた。

「だって、気象条件によってもタイムは影響されるよね? 向かい風が吹けばきつくなるし、気持ちも沈んで、タイムも遅くなる。もしも、設定タイムよりどんどん遅れていったとしたら、学生はどう感じるだろう? あれ、調子が悪いと思ってしまうでしょ。これがさらなるブレーキを引き起こす。ブレーキって、頭が悪さをするから起きる場合もあるんです」

 よって、箱根駅伝において、青山学院には設定タイムは設けられない(最初の5kmまで、といったようにレース展開によっては設ける場合もある)。

「僕は時計をつけて走らない」

 総合優勝に大きく貢献した往路の1区から4区の選手たちは、設定タイムについて、こんな回答をしていた。

 まず、1区で留学生にかき回され、その対応に追われた荒巻朋熙(2年)。

「設定タイムはありませんでした。1区では、出来れば駒澤さんより前でたすきを渡したいというのと、遅れたとしても20秒差以内にとどめたいというイメージでした」

 実際には先頭の駒澤と35秒差で2区の黒田朝日(2年)につないだ。「荒巻が粘ったのは大きかった」と原監督は高く評価している。そして2区で区間賞を獲得した黒田は、飄々と答えた。

「タイムについては、ぼんやりと66分台とは思ってましたが、それよりも去年の近藤幸太郎先輩の記録(注・1時間06分24秒)が指針になりました。僕は時計をつけて走らないので、通過のタイムはさっぱり分かりません。走り終えて、自分が思っていたよりもいいタイムが出てました」

 なんと、黒田は時計をつけて走らないのだ。完全に時間の概念からフリーであり、自分の感覚こそが頼りである。「15kmまでは抑えて、権太坂からギアを変えるつもりでした」とレースを振り返ったが、すべては体との対話によって生まれた区間賞、そして快走だった。

「佐藤圭汰君を追いかけたから、あのタイムが出た」

 そして3区、優勝の立役者となった太田蒼生(3年)。彼もまた、タイムには無頓着だった。

「タイムではなく、あくまで意識していたのは順位です。僕で先頭に立つイメージを持っていて、そうすればタイムはついてくると思ってました。駒澤の佐藤圭汰君という強い選手を追いかける展開になったことで、あのタイムが出たと思います」

 太田は、日本人学生としては初めて3区で60分を切る59分47秒をマーク。10000mでは現役日本人学生最高記録を持つ佐藤を上回った。太田が設定タイムを課せられていたとしたら、衝撃的な走りは生まれなかっただろう。

 そして箱根には4年連続出場となった4区の佐藤一世(4年)にいたっては、こんな言葉が出た。

「タイム設定していなくて、レースプランは後半耐える。悔いが残らないように走る。それだけでした」

 まことに、シンプル。

 このように青学の選手たちは、タイムに縛られることなく、レース展開に合わせた走りを心掛けている。

駒澤大とは「対照的」

 対照的だったのは、2位の駒澤大学だった。1月7日に日本テレビで放送された「もうひとつの箱根駅伝」では、鈴木芽吹主将の証言として、ほぼ設定タイム通りに走れてはいたが、後続の青学大との差をつけられなかった――と話していた。鈴木の話を聞くと、設定タイムと勝負の関係性の難しさが浮かび上がってくる。

 青山学院の取材を始めてから、かれこれ10年以上が経ったが、駅伝において彼らは時計ではなく、あくまで勝負を走っていることが分かる。

 練習では、時間の管理は当然のことながら行う。しかし、駅伝の本番、特に箱根駅伝の本番になると青山学院の選手たちは「タイムの呪縛」とは無縁で、のびのびと勝負を楽しんでいる。今回、総合タイムで大会新記録をマークしたが、これはあくまで結果の産物である。なにも、大会記録を狙っていたわけではないし、記録を出したとしても負けていたら意味はない。

 日常生活でスマートウォッチを進んで装着し、「管理されることを好む」人間にとって、青山学院の選手たちはなんともワイルドに見える。

「走ることは表現手段だからね」というのは原監督の名言だが、表現するために時計やタイムは必要ないのだ。

 私なぞは、走りでは自己表現できないから、せめて走ることに意味を持たせようと時計を装着して走っている。

 だからこそ、青山学院の選手がまぶしく見えるのかもしれない。

文=生島淳

photograph by JIJI PRESS