学校創立は江戸時代――今春のセンバツ甲子園への出場が決まった「超伝統校」耐久高校。智弁和歌山や市立和歌山といった強豪ひしめく和歌山で、なぜ“快進撃”を遂げられたのか。現地を訪ねた。(全2回の1回目)

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 ペリー来航の前年にして、安政の大獄の6年前にあたる嘉永5年(1852年)——。幕末の実業家で、醤油醸造業(1645年創業、現・ヤマサ醤油)の棟梁であった濱口梧陵(ごりょう)が紀州の広村(現在の和歌山県有田郡広川町)に開いた私塾が「耐久社」だ。「耐久」の2文字はそのまま「たいきゅう」と読む。

 その後、耐久社、耐久学舎、耐久中学と名称を変更しながら1920年に県立となり、1948年の学制改革により耐久高校となった。創設から171年目を迎えた昨年の秋、同校の硬式野球部は近畿大会でベスト4に進出し、今春、初めて甲子園の土を踏む。

部員19人…強豪ひしめく和歌山で

 就任5年目の井原正善監督(39歳)が話す。

「私にとっても耐久は母校ですから、監督を引き受けた以上、なんとか史上初めて、甲子園に連れて行きたいと思っていました。ただ、和歌山には全国制覇の経験がある箕島や智弁和歌山があり、市立和歌山、和歌山東といった学校も大きな壁として立ちはだかります。私が学生時代も、そして彼らも、県内のライバル校に勝って甲子園に出場することは夢のまた夢であり、現実的には21世紀枠を目指すしかないと思っていました」

 ところが、昨秋の和歌山大会では智弁和歌山に勝った田辺を決勝で退けて初優勝を果たし、40年ぶりに出場した秋季近畿大会では社(兵庫)、須磨翔風(兵庫)を破ってベスト4進出。接戦あり、逆転のゲームありと、校名の如く耐え忍んで3月18日から開催されるセンバツの切符を実力でたぐり寄せた。

 現在の耐久高校の生徒数はおよそ600人。野球部員は20人のベンチ入りメンバーに満たない19人の選手と、2人の女子マネジャーである。

終戦直後に「校名変更」の危機が…

 福澤諭吉の慶應義塾の創立(1858年)より6年も早く開校した耐久高校の野球部100年史を開くと、約120年前の創部(1905年)から確認できるだけで17回もユニフォームのデザインが変更されている。それも毎回、大幅な刷新だ。これが仮に、伝統校の慶應義塾や早稲田でユニフォーム変更となれば、大騒動に発展するだろう。

「強豪校であれば、ユニフォームを頻繁に変更することもないんでしょうが……うちの野球部は歴史こそあれ、伝統はないんです」

 そう笑ったあと、井原監督はなんとも寂しい表情を浮かべた。

 耐久高校は現在、学制改革時に合併した有田高等女学校の跡地(湯浅町。広川町に隣接)に所在するが、濱口が建造した耐久社は広川町立耐久中学校に現存し、日本遺産に指定されている。校内や湯浅町および広川町を歩くと、濱口梧陵にまつわる歴史的建造物が点在し、地域に語り継がれてきた創立者の偉功が肌で感じられる。

「耐久の名は、終戦後、進駐軍の視察によって変更の危機があった。『耐久』の2文字が戦時下の標語を想起させる、と。ところが、当時の英語教師が、濱口が晩年にアメリカ大陸に渡りニューヨークで亡くなったことを進駐軍に伝えると、そんな人物が創った学校なら名を残そうとなったようです。創設時よりずっと耐久の名が残っていることがまず奇跡なんです」

 そう話したのは女子バレーボール部の顧問で、28年間にわたって母校でもある耐久で教鞭を執る白井敏之教諭だ。この地に生まれ育った白井教諭の案内で校内を散策すると、耐久高校の卒業生で、日本を代表する彫刻家だった木下繁(1988年没)が制作した巨大な濱口像や、台座に「爽」の一文字が彫られた裸婦像があった(学校教育の場に裸婦像があるのも珍しいだろう)。

「あの小泉八雲も称えた」創立者の偉業

 さらに高校から歩いて20分ほどの広川町へと足を延ばすと、「稲むら火の館」が見えてくる。安政元年の11月5日(新暦では1854年12月24日)の夕刻、安政南海地震が発生した際、「大きな地震のあとには津波が到来する」との知見があった濱口は、暗闇の中、自宅敷地内にある田んぼの稲むらに火を放ち、逃げ遅れた村人を広八幡神社へと誘導して多くの命を救った。のちに、文筆家の小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが濱口を「A Living God(生き神様)」と称した所以であり、2015年に国際連合は安政南海地震の起きた旧暦の11月5日を「世界津波の日」に制定した。こうした濱口の偉業と教訓を後世に伝えるために、稲むら火の館の敷地内には濱口梧陵記念館と津波防災教育センターがある。白井教諭が続ける。

「梧陵さんのすごいところは、自宅を津波で流された人に私財を投げ打って仮設住宅のようなものを建てて住まわせ、漁具を失った漁師に新しい漁具を提供したことですよね。さらに、次に津波が押し寄せた時に備え、約1キロの広村(梧陵)堤防を作った。吉田松陰がこの生き神様の『耐久社』を参考にして松下村塾を作ったというのも頷けます。その後、梧陵さんは大久保利通の要請によって、初代駅逓頭(えきていのかみ、のちの郵政大臣)に就任し、1885年にお亡くなりになりました」

 2024年が明けた元日に能登半島地震が起き、日本列島に津波警報が鳴り響いた。そんな年に、耐久社の流れを汲む耐久高校が甲子園にたどり着くというのも何かの因縁なのだろうか。

 赤山侑斗主将は言う。

「もともと歴史ある学校だということはわかって入学しましたが、注目を集めることで改めて歴史の重みを感じています。この冬は甲子園で戦える身体作り、チーム作りを目標に練習に取り組んでいます」

 学校創設から172年、創部からは120年目を迎えた耐久高校は昨秋、なぜ快進撃を遂げられたのか——。

〈つづく〉

文=柳川悠二

photograph by Yuji Yanagawa