アジアカップを戦うサッカー日本代表。その指揮官・森保一(55歳)とはいったい何者なのか? 森保の地元・長崎、そして広島、仙台を徹底取材して見えてきた“意外な素顔”とは? ライター木崎伸也氏がNumberWeb集中連載でレポートする。【連載「誰も知らない森保一」の第7回/第8回も公開中】

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「森保は利口なところがあって…」

 森保一の武器は「人から話を聞いて吸収する力」である――。そう評するのは、サンフレッチェ広島時代に中盤でコンビを組んでいた風間八宏だ。

『ぽいち 森保一自伝』(西岡明彦との共著)において、風間は次のように語っている。

「『聞いて吸収できる人」という印象で、それが彼の特徴でもあった。(中略)

 いい選手になる素質というのは、いいプレーを盗む<吸収力>と、正しい判断を下せる<選択力>を持っている人。彼はその能力が相当優れていたのだと思います」

 サンフレッチェでGMを務めた今西和男も同じ見方をしている。今西はマツダ(サンフレッチェ広島の前身)総監督時代に、無名の高校生だった森保を発掘した人物だ。

 今回、『聞く、伝える、考える。』(今西和男著)の出版に合わせて広島を訪ねると、今西は2人の違いをこう説明した。

「八宏は技術があるだけでなく、サッカーに対して確固たる自分の考えがあった。知識に絶対の自信があり、自分はこういうサッカーをするんだという理想像を持っていた。本当にサッカーが大好きで、負けん気が強く、後にも先にもこういう選手に会ったことがない。

 一方、森保は利口なところがあって、八宏のところに行っていろいろ話を聞き、人の経験を自分のものにしようとしていた。八宏と同部屋になると、ずっと森保は話を聞いていたそうです」

「屈辱的な経験」

 森保は平凡な選手だったにもかかわらず、日本代表にまで上り詰めた「下克上の男」だ。それを実現できた理由のひとつに「人から話を聞いて吸収する力」があったのだろう。

 なぜ森保はプライドに縛られず、とことん謙虚に人に話を聞ける人間になったのだろう? おそらく高校から実業団に入るときの「屈辱的な経験」が関係している。

 1968年生まれの森保は、1987年3月に長崎日大高校を卒業して、18歳でマツダに入団している。

 屈辱の経験――。それは高卒でマツダに入団するとき、1人だけ子会社の採用になったことだ。

 マツダは1960年代に日本リーグを4連覇した名門チーム(当時は東洋工業)で、入団すると「マツダ株式会社」の正社員になるのが通例だった。仮に選手として大成できなくても、社業を頑張れば定年まで働き続けられる。非常に恵まれた待遇だ。

 だが、新卒選手同期6人の中で、森保だけが子会社の「マツダ運輸株式会社」(現マツダロジスティクス株式会社)勤務になってしまったのである。正社員には変わりないのだが、1人だけ違う会社になったら疎外感を覚えるのは当然だろう。

「月給も1万円安かった」

 森保は『ぽいち 森保一自伝』に当時の心情を吐露している。

「マツダとマツダ運輸とでは微妙に手当の差があった。(寮から)同期と出社する際も、入口は同じでもマツダとマツダ運輸とでは職場が左右に分かれて、一人だけ違う道だった。これも、やはり悔しかった。

 トップチームで頑張れば、マツダ運輸からマツダへ採用を切り替えようと言い、励まし続けてくれていた今西さんの言葉が刺激になり、とにかくハングリーな気持ちでサッカーに取り組んでいた」

 さまざまな資料の情報を合わせると、当時高卒の初任給はマツダがおよそ13万円(手取り9万円)、マツダ運輸がおよそ12万円(手取り8万円)だったようだ。高校を卒業したばかりの18歳にとって、1万円の差はかなり大きい。同期と食事に行くたびに、嫉妬が頭をもたげたに違いない。

「就職を取り消すとは言えない」

 もちろん今西としても最初から格差をつけたかったわけではない。森保も「マツダ株式会社」に採用する予定だった。しかし、80年代半ばの円高不況で自動車業界はあおりを受け、新卒採用枠が6人から5人へ急遽減らされてしまったのである。評価が最も低い森保をカットせざるをえなかった。

 採用自体が取り消されそうになったため、今西は受け入れ先を見つけるために奔走した。今西は振り返る。

「森保の未来を考えると、とても就職を取り消すとは言えない。ちょうど当時のマツダ運輸の社長がサッカー部OBでね。無理を言って、森保を預かってもらった。ただ、それを森保に伝えるのは心苦しかったですよ。1人だけ職場が違うし、初任給もみんなより安いんですから」

なぜ18歳森保の評価は低かった?

 それにしても、なぜ森保は「6番目」の扱いだったのだろう。答えは簡単だ。体がひょろひょろで体重が58kg(身長174cm)しかなく、わかりやすい武器もない。何より所属していた長崎日大高校が全国大会に1度も出られなかった。

 当時、同校は県内でベスト4に入れるようになっていたものの、国見高校にだけは一向に勝てない。その結果、インターハイと高校選手権に1度も出場できなかった。

 森保は高3のとき、個人としてかろうじて長崎県選抜の一員として国体に参加できたが、16人中14人が国見の選手だった。オール国見にしないようバランスを取るために選ばれたにすぎず、当然出場機会は回ってこなかった。

 高校時代の森保はそもそもスカウトに見てもらえる土俵に立てていなかったのである。

 にもかかわらずなぜ名門マツダのアンテナに引っかかったのか? それは長崎日大高校の恩師・下田規貴監督が「森保をなんとかしてやりたい」という一心で今西に売り込んだからだ。

 森保が高2の冬、下田は今西へ1通の年賀状を送った。

<続く>

森保一(もりやす・はじめ)

1968年8月23日、静岡県生まれ。長崎県出身。1987年に長崎日大高を卒業後、マツダサッカークラブ(現・サンフレッチェ広島)に入団する。現役時代は、広島、仙台などで活躍し、代表通算35試合出場。1993年10月にドーハの悲劇を経験。2003年に現役引退後、広島の監督として3度のJ1制覇。2018年ロシアW杯ではコーチを務め、2021年東京五輪では日本を4位に、2022年カタールW杯ではベスト16に導いた

文=木崎伸也

photograph by J.LEAGUE