1月某日、卒業を間近に控えた山本唯翔は城西大学男子駅伝部合宿所を退寮するにあたり、4年間暮らした建物を仰ぎ見ながら、笑顔でこう振り返った。

「大学生活はあっという間でした。新型コロナウイルスの影響で最初は思うように練習できず苦しい時期もありましたが、後半はレースも多く出られましたし、成長できた実感があります。なにより箱根駅伝でここまで結果を残せると思っていませんでした。想像以上の自分になれました」

 少年時代、柏原竜二が箱根5区で前を行くランナーを次々と抜き去っていく姿に憧れ、自分もそこで区間賞を取れるランナーになりたいと夢を抱いた。そしてその夢は城西大3年で区間賞だけでなく、区間新記録まで樹立する形で叶え、最終学年ではさらに記録を伸ばした。ついた愛称は“山の妖精”。山にちなんだ異名がまさか自分につくとは入学前に考えられなかっただけに、「想像以上の自分になれた」の部分にはひときわ力がこもっていた。

櫛部監督「正直、スピードのあるタイプではないので…」

 新潟県開志国際高校時代は全国高校駅伝やインターハイに出場しているが、上位で争う場面はなく、決して目立つ存在ではなかった。城西大監督の櫛部静二は当時を振り返る。

「大人しくて真面目な選手だなというのが最初に会った時の印象です。インターハイは3000mSCで出ていましたが、正直、スピードのあるタイプではないと思っていましたので、長い距離に挑戦させたほうが面白いと感じていました。ただ偏ったトレーニングをするのではなく、あらゆる可能性を探りながら、いろいろな取組みをしていこうと方針を立てたんです」

 山本は憧れだけでなく、「自分には上りの適性があるかもしれない」という自身への期待感も早くから持っていた。それは新潟県十日町市出身で小学校の時から地元のクロスカントリースキークラブで鍛えた脚力に自信があったためだ。事実、1年生から上りコースでの練習になると抜群の強さを発揮し、5区出走の機会を得ると、区間6位と好走してみせた。

 初挑戦での好成績に、「同学年の鈴木芽吹選手(駒澤大)に区間タイムで負けたのは悔しかったけれど、頑張れば4年目には区間賞まで行けるかもしれないと思えました」と目標への手応えを得た。しかし2年目、城西大は箱根予選会で落選してしまう。この年の箱根は走路員として沿道に立った。

「走っている選手に背を向けて立っていないといけないのが、本当に悔しくて。絶対に1年後にはもう一度山を走ってやると強く思いました。自分の競技生活の中でもここはターニングポイントになりました」

5区“区間新記録”を樹立した舞台裏

 そこからは年間を通して、山を意識したトレーニングを取り入れた。城西大の強化の特色でもある低酸素トレーニングではトレッドミルの斜度を最大に上げて登坂力も高め、チーム練習以外のジョグでは大学そばの丘陵地帯へひとりで走りに行く時間を増やした。

 そして3年目、箱根の出場権を得ると、「自信しかなかった」という状態で小田原中継所に立つ。ここで区間賞を獲得し、1時間10分4秒の区間新記録も樹立。入学時の目標を見事に達成した。

「この箱根は1年前に走れなかった悔しさをぶつけることができました。2年間やってきた取り組みには自信がありましたし、その間もチームの中で“5区は自分しかない”という期待をずっと感じていたんです。信頼に応えたいという思いがレース中のキツいところで自分を支えてくれたと思います」

 山本の5区での強さの要因を櫛部は「傾斜に対するカラダの使い方の巧みさにある」と話す。もともと接地時間が長く、身長に対してストライドの大きいフォームを持つが、上りでは重心を前にかけ、体重を乗り込ませる動きが上手く、無駄な力を使わずに上っていけるというのだ。それは山での走り込みだけでなく、上り坂でのバウンディングや、階段でのダッシュなど筋力強化に取り組んだ賜物でもある。

「もちろん持って生まれた能力が高かったことは間違いありません。加えて、山を走るだけでなく、こちらが提示するメニューに対し、抵抗感を示すことなくチャレンジする素直な性格も好結果を生んだと思います」

 櫛部からすれば、山本の5区での成功はある意味、必然だった。

意識が変わった「ケニア人選手との争い」

 一方で櫛部は山本を箱根5区だけの選手にするつもりはなく、最終学年を前にワールドユニバーシティゲームズに日本代表として出場し、世界と戦うという挑戦を促した。山に向けた様々なトレーニングはトラックでのスピード強化にもつながってきたことに加え、将来のためにも世界への意識を持ってほしいと考えたのである。

「そこまでは自分が日本代表で走るということを考えたことはありませんでした」と山本は振り返る。しかし4月の日本学生個人選手権10000mで代表権を勝ち取ってから、その意識は一気に高まっていく。そして8月、中国・成都の地で日の丸を胸に走ることで、かつてない思いが生まれた。

「中盤からケニアの選手と3位争いをする展開になったんです。本当にキツかったのですが、逆にアフリカの選手を相手に自分が勝負できていることに驚きましたし3位に入った瞬間に“自分もこうした国際大会で戦えるかもしれない”と感じたんです。本気で世界選手権やオリンピックを目指したいと思いました」

 箱根駅伝が最大の目標だった山本にとって、競技人生におけるさらなる目標が生まれたことは銅メダル以上の収穫だった。

気持ちが揺れた日「自分もあの中(箱根2区)で戦いたい」

 最終学年の箱根駅伝については気持ちが揺れた。前年度の2区で吉居大和(中央大)など学生長距離界のエースたちが激しい戦いを繰り広げるのを目にし、「自分もあの中で戦いたい」という欲求も芽生えた。2区への挑戦と、5区で前年の自分を超えることの両方を見据えながら1年間、強化を進めたが、最終的に自分の意志で5区に決めた。それは「チームのために自分がもっともタイムを稼げるのは5区だったから」。そして狙い通り、再度の区間新記録樹立に成功し、チームの箱根過去最高順位3位に貢献した。

「4年目は本格的にウェイトトレーニングに取り組み、臀部の筋力が上がったことも記録更新につながったと思います。3年目では上りの途中で脚が痙攣しかけた場面もありましたが、今回はペースの管理もうまくいき、最後までイメージ通りに走れました。5区を走りたくて城西大学に来て、ずっと山への思いは誰よりも強かったと思っているので、最後の箱根の結果には満足しています」

 楽しさも悔しさも味わい、自信や新たな可能性も手にした。山に憧れ、山に挑み続けた山本の4年間は最高の形で幕を閉じたと言えるだろう。

山の妖精が語る「次の目標」

 卒業にあたり、次なる目標を問うと、山本は真っ直ぐな視線で遠くを見つめながらこう言った。

「やっぱり自分は長い距離が向いていると思っていますので、マラソンでオリンピックに出ることです。もちろんもっとスタミナをつけないといけないですが、山に向けて取り組んできた脚力の強化は絶対に生きるはずです。城西大で目標を立てて、時間をかけてそこに向かっていく大切さを学びましたので、これからも焦ることなく、少しずつその夢に向かっていきます」

 実業団1年目はまず10000mで27分台突入を目指す。ニューイヤー駅伝に山はないが、平坦区間でも戦えるところを示したいとも意気込んでいる。そして最終的に山本が目指すのは“マラソンで世界と戦う”という箱根よりも高い山だ。山の妖精はその新たな目標に向け、走り出す。

文=加藤康博

photograph by Nanae Suzuki