結果を出せば一躍、眩いスポットライトが当たるスポーツの世界では、数々のヒーローとともに多くの“消えた天才”も生み出してきました。これまでNumberWebで公開されてきた記事の中から、特に人気の高かった「天才アスリート」にまつわる記事を再公開します。今回は大学駅伝から、出岐雄大さん編です!〈初公開:2024年1月6日/肩書などはすべて当時〉  青山学院大学を強豪へと引き上げた絶対的エースにして、陸上界期待の星――あの大迫傑ともしのぎを削った出岐雄大さんは、なぜ25歳の若さで競技人生を終えることになったのか。箱根駅伝に青春のすべてをかけた天才ランナーが、Number Webのロングインタビューに答えた。(全3回の1回目/#2、#3へ)

箱根駅伝“花の2区”で11人抜き、大学初の区間賞も

 この日は休日だったが、待ち合わせ場所に出岐雄大さんはスーツ姿で現れた。

 ピシッと糊のきいたスーツで、髪は短く刈り揃えられている。礼儀正しさは現役当時のまま。体型もほとんど変わっていない。だからなおさら、こう言われて驚いた。

「今はまったく走ってないですね」

 現在、33歳。差し出された名刺には、中国電力のロゴが入っている。会社では中堅どころだろうが、まだ選手を続けていてもおかしくない年齢だ。一つ上には2代目山の神と呼ばれた柏原竜二がいて、一つ下には大迫傑がいる。世代で言えば、自身の名前を冠した“出岐世代”と言えるだろうか。

 それほど、現役時代の走りのインパクトは大きかった。箱根駅伝には1年生の時から出場。2年生でエース区間の2区を走り、11人抜きの快走を演じた。3年生になると、全日本大学駅伝で大迫らを含む10人抜きを達成。箱根駅伝の2区でも青学大史上初となる区間賞を獲得し、エースとして常勝チームとなる礎を築いた。

 大学卒業後は、原晋監督と同じ中国電力へ進む。マラソン日本代表を目指して競技を続けたが、まだこれからという25歳の若さで引退した。当時、その理由をめぐって様々な憶測が飛んだものだった。

 なぜ出岐さんはそれほど早く、現役生活に見切りをつけたのか。その理由を知るために、半生を振り返りたい。

高校は長崎有数の進学校「陸上を続ける気はなかった」

 そもそも、出岐さんが青学大に進学したのは原監督にスカウトされたからだが、高校3年のある時期までは、大学で陸上を続ける気もなかったという。

 高校は長崎県の進学校で知られる長崎北陽台高。中学までサッカーをしていたため、高校でも最初はサッカー部に所属した。高校1年の秋に陸上部に入り直したのは、こんな理由からだった。

「中学でもサッカーをやりながら駅伝大会のメンバーに駆り出されて、市の大会で区間賞を取っていたりしたんです。なので、高校に入学したときも陸上部の顧問の先生から声をかけられていて。最初はサッカーがしたいということでお断りしたんですけど、(サッカー部が)強いチームじゃなかったので目標も曖昧で、中学の頃みたいに楽しくできなかったんですね。目標もなく続けるよりは、新しいことをやりたいと思って、それで陸上部に転部しました」

 陸上部も決して強豪とは言えず、長距離部員は3学年合わせて10名前後だった。だが、2年生になると早くも5000mで14分台を出し、チームの中で唯一インターハイにも出場した。高3では1500mと3000m障害の2種目で出場。その頃には複数の大学からスカウトの話が来るようになっていた。

なぜ“駅伝黎明期”の青学大を選んだのか?

 出岐さんは大学でも陸上を続けようと決心する。その中で青学大を選んだのはどうしてなのか。

「やっぱり原監督に誘われたのが大きかったかもしれないです。それに、当時は教員になりたかったこともあって、青山ならその免許が取れたんですね。ただ、私の思い込みかもしれないですけど、高校の先生方はあまり喜んでいなかったかもしれません(笑)。みんな勉強して、頑張って国立大を目指すという感じだったので、『スポーツ推薦か、ちゃんと勉強しろよ』という雰囲気でした」

 出岐さんが高校3年の時に、青学大は33年振りの箱根駅伝出場を果たした。第2の黎明期で、全国的な知名度も今ほどではなかった。チームはまさに原改革の真っ只中。5時半から朝練が始まり、寮の門限は22時。まだ代名詞の「青トレ」が始まる前で、専用のグラウンドもなかった。出岐さんは入部した当初の雰囲気をこう記憶している。

「私自身、1年生や2年生のうちから箱根に出られるとは思っていなくて、チームにも強豪校という意識はまったくなかったです。当時、監督がよく言っていたのは、『ユニフォーム負けをするな』ということ。多分、駒澤さんとか東洋さんのことを指していたと思うんですけど、私はそういうことを考えたことはなくて、陸上の知識がなかった分、気後れすることもありませんでした。むしろ、学年の7、8番手で入った自分にできるなら、周りの先輩たちは当然できるだろう、くらいに思ってました」

強い足腰を生んだ「150段の階段」と「サッカー部時代」

 大学に入ると練習量が増え、壁に感じる学生も少なくないが、出岐さんは強くなるために厳しい練習をするのは当たり前という考え方だった。ただひたすら監督の教えを信じ、先入観なく練習に打ち込む。1年目の夏合宿も故障なく過ごし、徐々に長い距離への適性を見出していった。

 箱根駅伝のメンバーにも1年目から選ばれ、実際に1区で区間9位の結果を残している。高校1年の秋から本格的に陸上を始めたことを思えば、その急成長ぶりは驚くばかりだ。自身の素質についてはどう考えているのだろう。

「まずは小さいころから走り回っていたのが大きいと思います。長崎は坂の多い街なんですけど、私の実家も山の上の方にあって、毎日150段の階段を上らないと家に帰れなかったんですね。あとは、中学のサッカー部の顧問が国見高校のOBの方で、私たちの代くらいまではギリギリ根性論が根付いていた。練習で走る距離がわりと尋常じゃなくて(笑)。そこで足腰が鍛えられたんだと思います」

 さらに言えば、メンタルも競技者向きだった。自他ともに認める、負けず嫌い。人から期待されればされるほど、やってやろうと思えた。だから、初めての箱根駅伝もさほど緊張はしなかったという。

「大事な1区ということで、失敗しないようにという気持ちは多少ありましたけど、あれだけテレビで中継してもらって、大きい舞台だからこそ、中途半端に終わるのは面白くないだろう、って。そう思っていましたね」

<第2回に続く>

文=小堀隆司

photograph by Number Web