2012年の9月、競泳男子200m平泳ぎで、まだ高校生だった山口観弘が世界新記録(当時)を叩き出した。五輪で2大会連続の金メダルを獲得していた北島康介の「後継者」として一躍スターダムに躍り出た18歳は、その後の日本競泳界を背負う存在として、大きな期待をかけられることになった。

 だが、その後の山口の競泳人生は決して順風満帆なものではなかった。なぜ、天才スイマーは苦悩し、袋小路に迷い込んだのか。本人が語ったかつての記憶とは。《NumberWebインタビュー全3回の初回/#2、#3に続く》

「俺が、世界一だ」

 そう言わんばかりに、まだ強い日差しを残す夏の空に向かって高々と右手の人差し指を突き出した。

 してやったり、というように口の端を少し持ち上げると、元々持っているやんちゃな雰囲気がさらに色濃くなる。表情やしぐさだけではない。レース後のインタビューもまた、豪胆であった。

「そうですね〜。正直、狙っていたのは(2分)6秒台だったので」

 会場に拍手とどよめきと、少しの笑いが起こる。それを聞くと、さらににやりと笑った。あの“無敵感”溢れる表情は、ファンの脳裏に焼き付いているのではないだろうか。

 山口観弘。当時18歳の若武者が、世界の頂点に立った瞬間であった――。

ロンドン五輪の選考は落選も…記録の予感はあった

「山口が、世界記録を出すかもしれない」

 今から12年前の2012年の夏。日本の競泳界では関係者の誰もがそう思っていた。

 その年の4月に行われたロンドン五輪選考会では、200m平泳ぎで派遣標準記録を突破しながら、北島康介、立石諒に敗れて3位となり、五輪代表入りを逃していた。

 それでも同年8月に行われたインターハイで2分07秒84と、当時北島が保有していた日本記録にあと0秒33に迫る好記録を叩き出すと、すぐにジュニアパンパシフィック選手権に出場するため、ハワイに出発。そこでも2分08秒03という好タイムで泳ぐと、ハワイから帰国した翌日に出場したジュニアオリンピックで2分07秒54と、当時の日本記録まで100分の3秒にまで迫った。

「日本記録、出せなくて悔しいっすね。でも本当、さっき帰ってきたばっかりで、時差ボケもあるなかで、これだけのタイムが出せましたから。また次、狙います」

 ジュニアオリンピックのレース後に、そうハッキリと言い切った山口は2週間後の9月15日の国体で、冒頭のようにまさに有言実行……どころか一足飛びに「世界新記録」という偉業まで成し遂げたのである。

 中核国際港湾を持つ、日本としても重要な港町として発展してきた鹿児島県志布志市。ダグリ岬をはじめとする海辺の景観が美しい、のどかな街だ。そこで山口は生まれた。

 先に水泳を始めていた兄・大貴の影響で4歳から泳ぎ始めた。

 通い始めたスイミングクラブは志布志DCという名前で専用プールはなく、志布志市に唯一ある市民プールを借りて練習を行っていた。水深は1mほど。そんな環境のなか、山口はのびのびと育っていく。

「全然、特別な練習なんてしていないんですよ。決まった練習は週に4回。あと2回は、選手たちがみんなで自主的に集まって自分たちで泳いでいました。1回に泳ぐ距離も4000m程度だったので、練習量も多くない。だから、自分が記録を伸ばせたのは、特別な水泳の指導を受けたからというよりも、ここで人間的にすごく鍛えられたからかな、という印象があります」

地元・志布志のクラブのコーチは…本業・獣医師!

 当時、志布志DCで指導をしていたのは、大脇雄三氏。水泳指導はボランティアで行っており、本職は獣医師である。大脇氏は水泳の技術的な部分は選手自身に任せ、「自分で考えて取り組め」と伝え続けた。その言葉通り、山口は常に自分で「どうすれば速くなるのか」を考え、試し、実行してきた。

「親にお願いして泳ぎをビデオで撮ってもらって、帰ってご飯を食べながらそれを見てインプットして。次の日は感じたことや試してみたいことをやる、みたいな練習の仕方でしたね。感覚は鋭いほうでしたから、泳ぎを自分で見て『ここが悪いな』と思ったところを自分で修正するのはうまかったと思います」

 大脇氏が作る基礎的な練習メニューは体力のベースとなった。

 それに加えて、上述のように自分で自分を客観視して、身体と対話しながら磨きあげた技術力が掛け合わさり、山口は急速に成長していった。

「あとは兄の影響も大きかったと思います。先に全国大会で優勝したのも兄でした。それを見て、僕も『兄と一緒に全国大会に行って活躍したい』と強く思うようになりました」

 そんな想いのもとで小学校時代から全国大会で活躍を見せると、中学2年時には100mと200mの平泳ぎで中学記録を樹立。高校に入っても快進撃は止まらず、2年生で北島が持っていた高校記録を更新すると、同年ペルーのリマで行われた世界ジュニア選手権の200m平泳ぎで、2分11秒70の記録で優勝。ジュニアの舞台ながら、世界一にも輝いた。

 ちなみに同年代で後に五輪のメダリストにもなる萩野公介や瀬戸大也らは、当時から山口の倍近い練習量をこなしていた。

 山口が当時、そんな彼らに負けない結果を残せた理由を追究すれば、それは「テクニックの成熟」に辿り着く。志布志DCで常に自分でメニューを考え、自身を“実験台”に試行錯誤を繰り返していた山口は、競泳技術を修正する能力の成熟が飛び抜けて早かった。

 そんななかでトライ&エラーを繰り返したことで、結果的に誰より早く「世界中が理想とする平泳ぎの形」に近づいていたのだろう。

高校1年生からは、チームメイトの指導も

「実は高校1年生あたりから、クラブの小学生の小さい子たちのチームの練習メニューも僕が作って指導していたんです。当時、大脇コーチによく言われたのは『お前の結果が出なかったらお前自身の責任だし、お前が見ている子どもたちの結果が出なかったら、それもお前の責任だからな』って。厳しいですよね。さすがに、すげえこと言われてるなって思いましたよ(笑)」

 でも、と言葉を続ける。

「それって人間として大事な事だなって。教えている子どもたちにとっては僕がコーチなんだから、僕が高校生かどうかは関係ないんですよ。だから、自分の行動とか言葉とか、練習中の姿とか、そのすべてが教えている子どもたちに影響するわけです。それにきちんと責任を持てる人間にならないといけないな、と思いました。たぶん、大脇コーチも僕にそうなってほしかったんだろうな……と思うんです」

 そんな環境下で、山口は磨かれた技術力に加え、自分自身を律しコーチングする能力も身につけていった。

 そうして日本でもトップクラスのスイマーに成長していた高校3年時。夢に見た五輪に出場するチャンスが巡ってきた。2012年におこなわれたロンドン五輪選考会を兼ねた日本選手権。順風満帆できていた山口だったが、最後の調整部分でミスをしたという。

「今振り返ると、“泳ぎすぎて”しまっていたんです。高地合宿から帰ってきて、もっと落ち着いていれば良かったんですけど……若いし調子も良いから、練習でどんどんタイムを追い求めてしまった。結果的にたくさん泳ぎすぎたんです。それで疲れが抜けきれずに、ピークを合わせ切れませんでした」

「五輪の優勝タイムよりも速く泳げば良いよ」

 掴みかけた五輪の切符には、あと一歩届かなかった。

 ただ、意外にも山口はすぐに「次の目標を定められた」のだという。きっかけは日本選手権で敗れ、帰りの飛行機に乗る前、大脇コーチに言われた一言だったという。

「夏、五輪の優勝タイムよりも速く泳げば良いよ」

 五輪の優勝タイムより速く泳ぐ――サラッと言ったその言葉が、簡単なハードルではないのは誰の目にも明らかだ。水泳を専門にしていないコーチだったからこそ、言えた言葉だったのかもしれない。

 だが、この言葉は、山口の心に深く刻み込まれた。

「『確かにな』と思ったんです。五輪に行けなかったから落ち込むとかはなくて、どちらかというと、『北島さんや立石さんとはまだ力の差があったな』と思うくらいでした。だから大脇コーチの言葉が刺さったんじゃないかな。

 そこからは、五輪の優勝タイムを意識した練習や取り組みを考えるようになったんです。当時のベストから考えれば厳しい記録設定でしたけど、もし五輪に出られていたらメダルとかを狙うわけじゃないですか。だったら、優勝タイムくらい常に意識していないとダメですよね。大脇コーチのひと言は僕にそう思わせてくれたんです」

 結果的にそんな素直な想いが、高校生の「世界記録保持者」を誕生させることに繋がったのだった。

 こうして日本中に衝撃を与えた高校最後の夏が終わると、山口は新天地で春を迎えようとしていた。

 そこが深く暗く、長いトンネルへの入り口になろうとは、まだ知る由もなかった。

<次回へつづく>

文=田坂友暁

photograph by JIJI PRESS