2012年の9月、競泳男子200m平泳ぎで、まだ高校生だった山口観弘が世界新記録(当時)を叩き出した。五輪で2大会連続の金メダルを獲得していた北島康介の「後継者」として一躍スターダムに躍り出た18歳は、その後の日本競泳界を背負う存在として、大きな期待をかけられることになった。

 だが、その後の山口の競泳人生は決して順風満帆なものではなかった。なぜ、天才スイマーは苦悩し、もがくことになったのか。本人が語ったかつての記憶とは。《NumberWebインタビュー全3回の2回目/#3に続く》

 山口観弘は2013年、東洋大学に入学した。

 地元の鹿児島県志布志市を離れ、都内の赤羽台にある大学寮で新生活をスタートさせた。

 そしてその年の日本選手権では、200m平泳ぎで初優勝を果たす。実は、山口は日本一になる前に、世界一になっていた希有な存在でもあった。

「ようやく日本一になれたので、しっかり世界と戦ってきます」

 優勝した日本選手権後のインタビューで、山口はそう話している。

 高校3年生にして200m平泳ぎで世界の頂点に立ち、さらに翌年には日本一の称号を手にした山口の未来は明るいはずだった。

 しかし、結論から言えば大学時代の山口は最後まで期待されたような輝きを放つことはできなかった。

 歯車は、すでにこの頃から狂い始めていた。

大学で長期のスランプに…原因は?

「高校3年生の冬くらいに、海外合宿の最中に左の肘を痛めてるんです。そこから、いろいろなことがおかしくなり始めました」

 次いで、左脚のハムストリングスの動きが悪くなった。オーバーワークだったこともあるが、左肘が完治しないまま練習を続けたことによって、肘をかばおうとする代償動作で、身体のほかの部分に支障が出始めたのである。

 高校時代からすでに、遠征前には当時の東洋大学の監督である平井伯昌コーチの指導を受けていた。そのときと練習の内容自体は大きく変わらない。

 にもかかわらず、疲労が抜けず、故障箇所も治らない。結果的に泳ぎの感覚もどんどん悪くなっていった。

「今だから分かることなんですけど……不調の“原因”を探ると2011年まで遡るんです」

 2011年の山口は高校2年生。世界ジュニア選手権の日本代表に選ばれ、代表合宿で東京と地元の志布志を往復する生活をしていた。

「2週間合宿で強化して、2週間志布志に戻る――というルーティンでした。この地元に戻って練習する2週間という期間がすごく重要だったんです」

 代表合宿で行う練習は、自分では思いつかないような、密度が濃く、質の高い練習ばかりだった。だからこそ、そこで得たものを地元に戻って過ごす2週間で反芻して、自分のものにしようとしていたという。

「この志布志での2週間の間に身体を休めながら頭の中でトレーニングを消化して、自分で泳ぎをコントロールできる状態を維持する。その上で、代表合宿で質の高い強化をすることができた。その相乗効果が世界記録につながったのだと思います」

 端的に言えば、山口はトレーニングで得た技術を高強度の練習量を継続したまま習得できるタイプではなかった。

 どこかで一度立ち止まり、身体を休めつつ自分のなかで取り組みを咀嚼し、身体に馴染ませていく時間が必要だった。つまり「復習」する時間が必要だったのである。高校時代は志布志での「復習」の時間があったからこそ、合宿で行った質の高い強化を自分のものにすることができた。

 だが、大学進学後はこの「復習」の時間がないまま、強化が進んでいった。

必用だった「復習」の時間…それでも休めなかった

 高校時代よりもはるかにレベルの高いトレーニングが課せられる中で、身体と頭、気持ちがキャパシティをオーバーする状態に陥っていても、立ち止まることができなかった。

「身体はどんどん疲弊していくし、それでも練習するからさらに身体を痛めてしまう。でも、なんとか日々のトレーニングはこなさないといけない。そこでまた別のところを痛めて……その悪循環を4年間、続けてしまった」

 トレーニングの過程でフィジカル強化に取り組む、休養を挟んで身体のケアを頻繁に行うなど、対応策自体はあったのだろう。

 ただそれは、大人になった今だからこそ打開策を見いだせるものだ。

 強豪大学チームの一員として、皆が懸命にトレーニングで切磋琢磨しているなかで、一選手が自分の考えを押し通すことが難しかったのは想像に難くない。

「多分、僕はもともと泳ぎに関してちょっと特殊な感覚を持っていて、さらに高校までいわゆる強豪チームではない田舎の特殊な練習環境で育った人間です。だからきっと――特殊すぎたんです。泳ぎの感覚もそうだし、練習の組み方やスケジュールの立て方も独特でした。だから本当に……ただ、大学というトレーニング環境が僕に合わなかったというだけなんだと思います」

 常人には理解できない天賦の感覚を持つ者を「天才」と呼ぶのならば、山口は間違いなくその範疇だった。そして、その才能ゆえに山口は袋小路に迷い込んでしまった。

 大学を卒業するころには胸郭出口症候群、四辺形間隙症候群、腱板損傷と関節唇損傷の4つの合併症を起こすまで、山口の身体は壊れていた。

「卒業するころには、もう自分で自分の身体をコントロールできないところまできてしまっていました」

 山口は世界的に活躍するアスリートが多い「大谷世代」と言われる1994年生まれだ。

 同年代の水泳界にもトップクラスの逸材が多かった。代表格は、高校3年生でロンドン五輪に出場し、400m個人メドレーで銅メダルを獲得した萩野公介である。他にも萩野のライバルで、今もなお現役選手として活躍し、先日のドーハ世界水泳では7大会連続のメダルを獲得した瀬戸大也(CHARIS&Co.)など、名前を挙げれば切りがない。

 その萩野は、山口と同じ東洋大学のチームで研鑽を積んでいた。

 同じように練習し、トレーニングをしているのに、どんどん結果の差は広がっていく。同級生たちの中にも記録を伸ばし、日本代表として世界に羽ばたいていった選手たちも多くいた。そんな状況を、当時の山口はどう感じていたのだろうか。

「ほかの選手の活躍は、単純にうれしかったです。特に(瀬戸)大也とは仲がよかったですし、僕と同じくロンドン五輪を逃して苦労していた面も知っているから、2013年に一緒にいった世界水泳で金メダル(400m個人メドレー)を獲ったときは、本当にうれしかったですね」

不調の中で…競技を続けられたモチベーションは?

 一方で、周りの選手たちが結果を残す中で、どれほど頑張っても自分の記録は停滞したままだった。では、一体何をモチベーションに大学4年間を乗り越えられたのだろうか。

 そう尋ねると、山口は「実は僕も現役時代に『自分のモチベーションってなんなんだろう』って考えたんですよ」と笑う。

 はたと気づいたのは、日本競泳界の“レジェンド”の存在だった。

「五輪で金メダルを獲ることは、もちろんモチベーションのひとつでした。でも、それよりも大きかったのは北島康介に勝つこと。小学4年生の時に2004年のアテネ五輪での活躍を見てから、『直接対決で北島さんに勝つ』ということが、僕にとって最大のモチベーションだったんです」

 相手は、北島康介でなければならなかった。

 だからこそ、ほかの選手たちが活躍したことで自分のモチベーションが下がることもなかった。萩野や瀬戸の活躍も、心から喜ぶことができた。同級生が代表に入ることも、ただただうれしかった。

 世界記録を出すことも、もちろんひとつの目標ではあった。だが、それ自体がモチベーションになっていたわけではなかった。あくまで山口が目指していたのは、「五輪で北島康介と一緒に泳ぎ、直接対決で勝つこと」。世界記録は、それに必要な要素というだけだった。

 だから、リオ五輪の選考会を兼ねた2016年の日本選手権で敗れた北島が引退を表明したとき、自分の心にポッカリと穴が空いたのが分かった。山口のこの日本選手権での結果は、100m平泳ぎで1分00秒97の7位。200mでは、2分13秒11の19位で予選敗退。最後は、隣に立つことすら叶わなかった。

 どんなに苦しくても、北島がいたから頑張れた。北島と戦い、勝ちたいという思いだけで、痛みに耐えて踏み留まってきた。そのゴールがいなくなった。

 山口もちょうど大学4年生で卒業を迎える年齢になり、ひと区切りをつけるには最高のタイミングでもあった。

「競技者としての山口観弘は、もうこの時にほとんど消えていたのかもしれません」

 ただ、山口はここで立ち止まることなく早々に次への一歩を踏み出した。もうひとつ、競技成績とは別ベクトルのモチベーションがあったからだ。

「指導者になることでした。高校生のときに志布志DCで子どもたちを指導しているとき、すごく楽しかったんですよ。『子どもたちをどうやって速くしよう、どうやったら強くなるんだろう』……そんなことを考えながら指導して、子どもたちが結果を出したときは本当にうれしかった。そのときから『指導者になりたい』という気持ちはあったんだと思います」

指導者になるため…自分を実験台にさまざまなトレーニングを

 大学での4年間は、志布志で練習していたときのように自分で練習メニューを考え、自ら試行錯誤して水泳と向き合うことができなかった。

 ならば、卒業後はもう一度自分のやりたい練習をしてみよう。自分がやりたいコーチングのため、自分を実験台にしながら次のキャリアに生かそう。そう考えたのである。

「卒業後、練習を見てくださったのが石松正考コーチでした。こうしてみたいとか、こうしたほうが良いとか、石松コーチとは常にいろいろと話し合いながら取り組みました。今も迷ったことがあったら相談することもあります。

 この期間は本当に学びが多かったですし、今のコーチングにも生きています。ここで一緒に取り組んでくださった石松コーチには、本当に感謝しています」

 結果、山口は2021年の日本選手権まで競技を続けた。最後の日本選手権の成績は、100m平泳ぎで1分02秒01、順位は予選28位。世界の頂点に立った男の競技人生の幕が下りた瞬間だった。

<次回へつづく>

文=田坂友暁

photograph by (L)JIJI PRESS、(R)Yuki Suenaga