あの桑田真澄と清原和博の指名をめぐって紛糾した1985年ドラフト会議。指名が重複した清原の「外れ1位」で、ひっそりと近鉄バファローズに入団した男がいた。桧山泰浩である。翌86年のドラフト1位・阿波野秀幸、89年の野茂英雄が鮮烈な印象を残す中、自分に期待する声は消えていき……。“忘れられた”ドラ1、桧山が半生を語った。〈全2回の1回目〉

 文武両道で知られる福岡の進学校、東筑のエースとして1985年春のセンバツに出場した桧山泰浩。プロ7年間で1勝もできずにユニフォームを脱いだ彼は、29歳で司法書士の資格を取った。法律職として活躍する、プロ野球OBとしては珍しい存在だ。

「ドラフトで指名されたのが39年も前、引退してから30年以上経った。春季キャンプに行ったり、近鉄OBや同期の桑田真澄と会ったりするけど、基本的にはプロ野球とはまったく関係ないところにいます」

 桧山はそう語る。

清原の「外れ1位」で近鉄へ

 1985年11月20日に行われたドラフト会議の主役は、その夏の甲子園で優勝を飾ったPL学園のふたり、エースの桑田真澄と4番打者の清原和博だった。早稲田大への進学を表明していた桑田を読売ジャイアンツが1位で指名し、6球団から指名された清原を西武ライオンズが抽選で引き当てたあの秋。「KKドラフト事件」の最中、清原の「外れ1位」でひっそりと近鉄バファローズに入団したのが桧山だった。

「俺たちの時代、18歳だからと言って特別扱いされることはまったくなかった。むしろ、『若いんだから文句言わずに投げろ』と言われたね。今の高卒ルーキーみたいに『はじめは体づくりから』という発想は誰にもなかった」

 1979年、1980年にパ・リーグ連覇を果たした近鉄だが、鈴木啓示や井本隆など主力投手が引退。世代交代の時を迎えていた。

「先発陣は村田辰美さん、小野和義さん、佐々木修さん、抑えに石本貴昭さんという顔触れ。若手には3歳上の加藤哲郎さん、2歳上の吉井理人さんがいた」

当時のプロ野球「ほとんど喫煙者」

 もちろん、新人投手にはプロの猛者たちと同じ練習メニューが課せられた。

「それが普通だったね。プロになったんだから当たり前。そこから這い上がった選手を使うという考え方だったと思う。今の選手は酒もたばこもやらずに練習熱心だと聞くけど、『昔は酒もたばこも遊びもやって、それで活躍してこそプロ』という共通認識があったね」

 当時の選手の9割が喫煙者だった。

「のちのち、桑田が巨人で『喫煙者と非喫煙者のバスを分けてくれ』と球団に直訴して話題になったけど、そんなことを思いつきもしなかった(笑)。俺もたばこを吸わなかったけど」

栗橋茂、金村義明…濃すぎるメンバー

 寮でも遠征先でも、選手はもちろん、監督、コーチも門限をまったく気にしていなかったという。

「1987年のシーズンオフに仰木彬さんが監督になってからは特に、そういう小さなことを気にする人はいなかったんじゃないかな。その代わり、グラウンドで結果を残せない選手は取り残されるというシビアさがあった」

 梨田昌孝、羽田耕一、栗橋茂などのベテランのほか、野手には大石大二郎、金村義明、村上隆行がいた。

「一般的な意味で、“仲良し”という存在はいなかった。レギュラーの人たちは特にそうで、それぞれが勝手に動く。まとまるのは試合の時だけじゃないかな」

阿波野、野茂のウラで…忘れられたドラ1

 1986年ドラフト会議を経て、亜細亜大学のサウスポー、阿波野秀幸がドラフト1位で近鉄に入団。その阿波野が1年目に15勝、2年目の1988年に「10・19決戦」で涙を飲むも、翌1989年に19勝を挙げ、9年ぶりのリーグ優勝を手繰り寄せた。そして、その秋のドラフト会議で、あの男もチームに加わった。8球団が競合した末に近鉄入りした野茂英雄である。

「阿波野さんは体こそ細かったけど、ボールが素晴らしかった。野茂のピッチングを初めて見た時、『1年目から15勝はするやろね』と思ったけど、実際には遥かに上回ったね(18勝で最多勝、防御率2.91で最優秀防御率、MVP、新人王などを獲得)」

 大学卒の阿波野、社会人野球を経て入団した野茂。2年連続で鮮烈な印象を残した2人の“ドラフト1位”にファンは熱狂した。同時に、かつてのドライチ、桧山に期待する者はいなくなった。

「2人の前のドラフト1位は誰やったっけ? という感じやったね。俺が騒がれたのは1年目のキャンプの時ぐらいだったかな。入団した時、一軍のピッチャーも特にすごいと感じなかったから、『そのうちやれるやろう』と思っとったけど、『そのうち、そのうち』と言ってるうちに時間が過ぎていった……。振り返ってみると、自分にはほかの選手のようなガムシャラさがなかったね。なんとしてでもライバルを蹴落として、一軍に這い上がってやろうという気持ちが足りなかった」

後輩の一軍行きを目撃…認めた“弱さ”

 高卒の選手にも抜かされた。1988年ドラフト4位で静岡(静岡)から入団した高卒ルーキー、赤堀元之は1年目に一軍デビューを飾る。赤堀の一軍行きを、桧山は間近で目撃した。

「入団した時からいいボールを投げていた。福岡遠征の時に一緒にメシを食ってホテルに帰ってきたら、マネージャーが待ち構えとってね。門限破りを怒られるかなと思ったら、『おまえはええねん。赤堀、明日から一軍に合流せえ』と言われて、朝イチの新幹線のチケットを渡されるのを見た。俺は『よかったな! もう一杯いくか』と言うたんやけど(笑)。もちろん、悔しい気持ちはあったけど、『頑張れよ』というほうが強かった」

 チームの自由な空気に流された部分もある。桧山は自身の“弱さ”を認めた。

「プロでの4年間が終わって、もう体も鍛えようがない。技術が上がるとも思えない。毎日毎日、遊びほうけ、飲み歩いてたね。ほかの人には迷惑をかけないようにしたけど。戦力外通告という“死”を待つだけ、みたいな状態だった。ピッチャーとしての能力自体はほかの選手に負けてなかったと思うけど、それ以外の部分、心構えみたいなものが違ったんやろうね」

 桧山が近鉄に入団する前年、ドラフト1位で南海ホークス(現福岡ソフトバンク)に入った田口竜二(都城卒)からこう聞いたことがある。彼も1勝もできずにユニフォームを脱いだ男だ。

「気が強い人間はコーチに好かれません。言いたいことを言う、やりたいことをする、そして、よく遊ぶ選手は……。まあ、全部私のことです(笑)。練習は真面目にやりました。ちゃんと走る。でも、夜に寮を抜け出して遊びに行くと、すぐにばれる。そうすると、監督やコーチに『なんだ、あいつは』と言われてしまう。何か言われたら、『ちゃんと練習してるからいいじゃないですか』と答える……嫌われますよね」

 二軍選手の“生殺与奪”は二軍監督とコーチが握っている。実績のない選手が発言してもなかなか受け入れてもらえないし、移籍の自由もない。監督やコーチからすれば「文句を言ってないで、黙ってやれ」ということだろう。

 首脳陣と選手の関係について、桧山も「実力のある選手、二軍の監督やコーチが一軍に送り込みたい選手を中心にローテーションも組まれる。試合を経験する有望株と、出番に恵まれずにくすぶるやつでは差がついてくる」と言う。

24歳で日本球界を引退

 桧山は1991年限りで近鉄を退団。1勝も挙げられずに24歳で日本球界を去った。のち、韓国プロ野球で再起を目指すも、そこでも活躍できずに終わった。

「近鉄の投手層が厚かったのは確かだけど、そのチームでクビになったらもうダメでしょう。トライアウトを受けても、アメリカの独立リーグに行っても、また一軍でプレイできる確率は相当低い。まあ自分の場合は、野球に対する気持ちも落ちていたから、見切りも早かった。ただね、こうも思う。もうプロ野球選手として限界だと思ったら、1年でも、一日でも早く社会人になって、次の仕事を探したほうがいい。引退してからの人生のほうが長いんだから。年齢を重ねれば重ねるだけ、仕事を見つけるのが難しくなっていくからね。今振り返ってみて、心からそう思うよ」

 プロ野球で二軍生活が長かった桧山に蓄えはなかった。韓国から帰国後、衣料品会社で働きながら、「次」を考え始めた。

「高卒の俺が狙えるのは……」

 桧山はある決断を下した――。

〈つづく〉

文=元永知宏

photograph by Naoya Sanuki