各競技において“消えた天才”と呼ばれる存在がいる中で、特に目立つのがフットボール界である。王国として名高いブラジルにも10代にして才能を轟かせながら、その後のキャリアがくすぶってしまった人物は多い。その象徴であるFWアレシャンドレ・パトとMFガンソが脚光を浴びた瞬間と、現状の落差を知る。(全2回の第1回/ガンソ編につづく

 野性的な風貌の持ち主が多いブラジル人選手の中にあって、レオナルド(フラメンゴ、鹿島アントラーズ、ACミランなどでMFとして活躍し、1994年W杯で優勝)、カカ(サンパウロ、ACミラン、レアル・マドリー、ブラジル代表などでMFとして活躍し、2002年W杯で優勝)と並ぶ、貴公子然とした容貌(ただし後述するが、このことがフットボール王国ブラジルにおいては一種の“ハンディ”となりうる)。

 そんな1人のアタッカーが頭角を現したのは、00年代後半のことだった。

ロナウドとカカを合わせた天才アタッカー

 スペースへ抜け出すスピード、繊細なボールタッチ、柔らかいドリブルでマーカーを出し抜き、美しいシュートをゴールへ流し込む。若くして華々しいデビューを飾り、「ロナウド(インテル、レアル・マドリーなどで活躍し、02年W杯で優勝)とカカを合わせたような天才アタッカー」と評された。国内メディアは、「いずれ世界一のアタッカーとなり、セレソン(ブラジル代表)に多くの栄光をもたらすはずの男」と持ち上げた。

 ブラジル南部の小都市パト・ブランコ(注:白いアヒル、を意味する)の出身であることから、「アレシャンドレ・パト」あるいは「パト」と呼ばれるようになった。フットサルで足技を磨き、12歳で南部の名門インテルナシオナルのアカデミーに入団した。

「好きなフットボールに打ち込めたのは嬉しかったが、まだほんの子供だったからホームシックになり、とてもつらい思いもした」

 インテルナシオナルは80年代のセレソンでジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」の一員として華麗なプレーを披露したMFファルカンの出身クラブだが、パトの才気あふれるプレーはたちまち評判になり、「クラブ史上最高の才能」と騒がれた。

17歳でクラブW杯ゴール、バルサ撃破→ミラン移籍

 06年11月、17歳2カ月でデビューすると、試合開始直後、スルーパスに反応して敵の最終ラインをすり抜け、右足アウトサイドで流し込んでいきなりゴール。さらにこの年12月に日本で行なわれた世界クラブW杯に出場し、準決勝アル・アハリ戦で前半23分に先制点。当時17歳102日で、FIFA主催の公式大会における最年少得点記録を更新した(注:従来の記録は、ペレが58年W杯ウェールズ戦で得点したときの17歳239日)。決勝でMFロナウジーニョ、MFデコにイニエスタ、CBカルレス・プジョルらスターが顔を揃えるバルセロナを倒して世界クラブ王者に輝いた。

 パトは当時について、こう語っている。

「デビューと初ゴール、世界クラブW杯での得点と優勝と、非常に短い間に多くのことが起きた。毎日、夢の中を生きているようだった」

 パトの勢いは止まらない。07年前半、クラブで27試合に出場して12得点。これほどの逸材を、欧州クラブが放っておくはずがなかった。複数のメガクラブが争奪戦を繰り広げた末に8月、18歳になる直前に移籍金2400万ユーロ(約39億円)で当時の欧州クラブ王者ACミランへ移籍した。

ミランでも順調な船出、若手女優とも結婚

 選手登録の関係でデビューが少し延びたが、08年1月13日のナポリ戦で先発。前年の世界最優秀選手に選ばれたばかりのカカ、点取り屋ロナウド、オランダ代表MFセードルフら名手に交じって堂々とプレーした。後半29分、左後方からのロングパスを巧みにトラップしてGKと1対1になったところをゴールに流し込んで初得点を記録した。

「子供の頃から憧れていたロナウド、カカらと一緒にプレーし、しかもゴールを決めることができて本当に嬉しかった。これならイタリアでもやっていける、と確信した」

 この年、セレソンにも招集されると、3月のスウェーデンとの強化試合で後半途中から初出場。敵陣深い位置でGKのキックをブロックし、目の前へこぼれたボールをすかさずロングシュート。これがゴールに飛び込み、決勝点となった。

 インテルナシオナルで、世界クラブW杯で、ACミランで、そしてセレソンでと、すべてのデビュー戦でゴールを叩き込む勝負強さに、誰もが驚嘆した。

 私生活では、09年7月にブラジルの若手女優と結婚。やることなすことすべてが理想的で、ブラジルの全フットボール少年の憧れの的となった。

相次ぐケガ、9カ月で結婚生活破綻、そして…

 ACミランでは、08-09シーズンに42試合に出場して18得点5アシストと絶好調だった。しかし、10-11シーズン以降、次第に故障が増える。足首、内転筋、アキレス腱、太ももの肉離れなど筋肉系の負傷……。11-12シーズンだけでも6度故障し、治療とリハビリに実に166日間を費やした。

「相次ぐ故障で、自分の身体が信じられなくなった。故障が癒えて練習に復帰しても、『またすぐに故障するんじゃないか』と不安になる。そして、実際にまた故障してしまうんだ」

 私生活でも、波風が立ち始めた。

 故障が多いストレスを夜遊びで紛らわせるようになり、10年4月、わずか9カ月で結婚生活が破綻してしまった。

 その後は、体調不良のためクラブでの出場機会が減少。12年は故障のせいでほとんどプレーできず、13年1月に母国の強豪コリンチャンスへ移籍した。この年は、久々にレギュラーとしてプレーした。しかし、コパ・ド・ブラジルの試合がPK戦までつれ込み、5人目のキッカーを務めた際、GKのタイミングを外そうとした緩いキックが難なくキャッチされて敗退。サポーターが激怒し、以後はホームゲームでボールに触る度に痛烈なブーイングを浴びた。

PK失敗で男性ファンから受けた“痛烈な嫉妬”

 これには伏線があった。

 ブラジルでは、ルックスの良い選手は女性ファンに人気があるがゆえに男性ファンから嫉妬され、「闘志に欠ける」という批判を受けることがしばしばある。サンパウロでの若手時代、カカも同様の批判に悩まされた。

「コリンチャンスでは久々に良いプレーができていたのに、あのPK失敗で全サポーターを敵に回した。たった1つのミスで地獄に落ち、居場所を失った」

 以後、サンパウロへ期限付き移籍した後に「もう一度、欧州で輝きたい」と考えて16年1月、チェルシーへ期限付き移籍したが、半年間に2試合でプレーしただけ(1得点)。この年7月、ビジャレアルへ移籍したが、ここでも不調だった。

 17年から2年間、中国リーグの天津権健(現:天津天海)でプレーした後、サンパウロ、オーランド・シティ(MLS)に在籍したが、目立った活躍はできなかった。

34歳、無所属だが「引退するつもりはない」

「中国はブラジル、欧州とは習慣もメンタリティーも全く異なっていた。知人もおらず、とても孤独だった。でも、そのお陰で自分を見つめ直すことができた。その後、ブラジルへ帰ってきて現在の妻と知り合い、精神的な安らぎを得た」

 23年はサンパウロでプレーしたが、コンディション不良で10試合に出場しただけ(2得点)。年末に契約が満了し、以後は所属クラブがない。

 現在34歳。本人は「まだ引退するつもりはない。今年こそコンディションを整え、しっかりプレーしたい」と語っている。

 セレソンでは、08年から13年まで25試合に出場して10得点。しかしW杯には一度も出場できなかった。10年大会では若過ぎたし、14年大会ではすでにピークを過ぎていたからだ。「セレソンのエースとしてW杯で優勝を」という期待に応えることはできなかった。

故障、私生活の乱れ、繊細な性格ゆえ…

 才能豊かな選手の宝庫であるブラジルでも「特別な才能の持ち主」と評されながら、度重なる故障、私生活の乱れ、そして繊細な性格ゆえに大成できなかった。

 早熟の天才は、成長が止まるのも非常に早かった。それは、パトより40日だけ遅く生まれたMFガンソも同じだった。

<第2回/ガンソ編につづく>

文=沢田啓明

photograph by Takuya Sugiyama