「一番はみなさんがうるさいので……」大谷翔平は結婚を公表した理由を問われ、こう答えた。“アスリートの結婚”をマスコミはどう取り上げてきたのか? なぜアスリートは結婚式を公開しなくなったのか? その歴史を追う。【全5回の第4回/第1回〜第5回、公開中】

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「高さ6.5mのウエディングケーキ」

 1980年代に入ると、アマチュアスポーツの選手の結婚もメディアをにぎわせるようになる。国内外の大会で優勝を続けていたマラソンの瀬古利彦は1985年6月14日、元幼稚園教諭の女性と東京・赤坂プリンスホテルで挙式・披露宴を行った。ウエディングケーキの高さが6.5メートルと、10日後の松田聖子・神田正輝の披露宴(「聖輝の結婚」と呼ばれた)で準備されていたものより1メートル高いことが注目されたりした。

 瀬古は結婚式当日もいつもどおり早朝練習を欠かさず、夕方の練習は昼に繰り上げて式にのぞんでいる。そのストイックさから「走る苦行僧」などと呼ばれていただけに、祝宴での笑顔も当時としては珍しがられた。もっとも、瀬古が根はひょうきんな性格であることは、翌1986年5月5日に同じホテルで行われた、柔道の山下泰裕(前年に現役引退して当時は東海大学講師、現・JOC会長)の結婚披露宴であきらかになる。

出会いは“銀座の高級品店”

 瀬古と山下は競技は違えども、トップアスリートとして互いに存在を意識し合うライバルであり、1980年のモスクワ五輪ではともに金メダルを期待されながら日本の大会不参加で挫折を味わった盟友でもあった。とはいえ、直近の1984年のロサンゼルス五輪で、山下は無差別級で宿願の金メダルを獲得したのに対し、瀬古は14位に終わる。瀬古は山下の披露宴でこのことを自虐混じりにスピーチしてみせ、爆笑を誘った。当時の写真週刊誌の記事から引用すると……。

《故中村清先生(引用者注:瀬古を育てた早大競走部監督)に、よくいわれました。『いいか、山下は立派だぞ。あの男に負けちゃいかんぞ』と。しかしながら、オリンピックでは差をつけられて、彼は国民栄誉賞、僕は都民栄誉賞(爆笑)。僕もこの赤坂プリンスホテルでオリンピックのあとすぐに結婚しましたが、直後、腰がグラついているなどとよくいわれました(爆笑)》(『Emma』1986年6月10日号)

 山下と夫人は結婚前、デートしているところを芸能週刊誌に撮られ、交際があきらかとなる。これもアマチュアスポーツの選手では前例のないことだった。夫人はもともと山下のファンで、勤務先である銀座の高級品店に彼が来店したのをきっかけに、ダメ元で自分の写真を3枚同封した手紙を送ったところ、2日後に返事の電話があり、交際を始めたという。このエピソードもマスコミの格好の話題となった。

“2億7500万円”の披露宴

 こちらはアマチュアではなくプロだが、自転車世界選手権で10連覇を果たした競輪の中野浩一は1986年9月29日、元歌手の女性との婚約会見で、プロポーズの言葉は「僕のパンツ洗ってください」だったと明かして話題を呼ぶ。いまなら物議を醸しそうな発言だが、当時はおおむね好意をもって受け止められた。結婚するまでの獲得賞金は通算8億6000万円という競輪界のスーパースターとあって、翌1987年1月30日の新高輪プリンスホテルでの披露宴も総額2億7500万円をかけた豪華なものとなった。

 このころには、一般人のあいだでも結婚式・披露宴を豪華に行う傾向が強まっていた。そこには、メディアで大々的に報じられるスポーツ選手や芸能人の挙式の影響もあったのだろう。他方で、80年代には、『FOCUS』(新潮社)や『FRIDAY』(講談社)、前掲の『Emma』(文藝春秋)などといった写真週刊誌が出版各社からあいついで創刊し、隆盛をきわめた。そのなかでスポーツ選手の恋愛や結婚も格好の特ダネとされ、スター選手ともなればカメラに追い回されることになる。

原辰徳、異例の婚約会見「いろんな障害がありました」

 当時の巨人の主砲・原辰徳もマスコミから終始マークされていたため、交際中だった夫人とはなかなか表立って会えず、電話で話すことが多かったという。プロポーズも電話でだった。

 相手の女性とは1981年の巨人入団前に出会って交際を始め、結婚も意識したものの、周囲の反対を受けいったんは別れた。その後、彼女は別の男性と見合い結婚するも2年足らずで離婚、直後に偶然再会した原と再婚するにいたった。原としても再会後、色々と考えた末の決断であった。

 婚約は異例のシーズン中の1986年5月8日に発表され、翌日には二人そろっての会見が行われている。その席上、彼女は涙ぐみながら「ただただ、本当にありがたいという気持ちでいっぱいでした」と繰り返した。彼女が報道陣からの質問に言葉が途切れがちになると、原がすかさず助け船を出し、「僕らのあいだには、たしかにいろんな障害がありました。しかし、そういうのは超越してこの人と一緒になろうと決意したのです」ときっぱりと語った。

 当時、離婚歴のある女性に対して、世間一般には偏見が少なからずあった。もし、婚約発表より前に写真週刊誌にすっぱ抜かれていたら、二人の関係はもっとスキャンダラスに騒がれていたかもしれない。それを原は報道に先んじて公表し、真摯な態度を示すことで「純愛」へと昇華したのだ……とも評された(『サンデー毎日』1986年5月25日号)。

 写真週刊誌は、1986年にビートたけしが『FRIDAY』の取材姿勢に抗議して編集部に乱入するという事件もあり、数誌を残して休刊があいつぎ勢いを失っていく。90年代初めにはバブルも崩壊した。だが、アスリートの結婚報道はむしろこのあとピークを迎えることになる。

<続く>

文=近藤正高

photograph by JIJI PRESS