トレーニングやデータ分析など、現代の高校球児は各方面からのアプローチで得る知見が多い。その中で指導者はどのようにアジャストしようとしているのか。センバツ優勝経験を持ち、イチローや工藤公康といった名選手がOBの愛工大名電・倉野光生監督(65歳)に幅広く話を聞いた。<NumberWeb特集インタビュー全3回の第3回/第1回、第2回も>

 愛工大名電の倉野光生監督は、チームの指導者になって42年が経つ。

「あっという間だったね。もう少し、監督を続けさせてほしいなと思っています」

 現在65歳。教員としての定年は目前に迫っているが、まだ過去を振り返るつもりはない。

シーズンオフに雪山を1人で歩くライフワーク

 倉野監督は愛工大名電の前身、名古屋電気高校時代に主将を務めた。愛知工業大学で捕手として明治神宮大会に出場し、卒業と同時に母校のコーチに就任。工藤公康氏やイチロー氏らプロ入りした数々の野球選手の指導にあたった。1997年、38歳の時に中村豪氏から監督を引き継いだ。

 指揮官に就任した頃から、倉野監督は新たな“ライフワーク”を取り入れた。冬山の登山。シーズンオフに入る冬場、1人だけで山に登る試練を自らに課した。

「雪山では色がなくなって、白と黒だけの世界になります。1人で何時間も、ひたすら歩く。恐怖や不安との戦いです」

 夏はハイキングを楽しむ人でにぎわう山は、冬になると表情を変える。吹雪になると50センチ先の視界もはっきりせず、雪が積もればルートの目印となる他の登山者の足跡は消える。遭難のリスクとは隣り合わせだ。

 雪山の気温はマイナス20度ほど。汗はつららとなり、持参している水やおにぎりは凍る。食べられるのはチョコレートだけ。命の危険を感じたこともあったという。登山届を提出して保険をかけているとはいえ、全ては自己責任。頼れるのは自分の判断しかない。極限状態で知るのは己の弱さ。今、歩いているルートは正しいのか。常に判断を迫られる。

「雪山にいると自分の弱さを知り、いかに優柔不断なのかを痛感します。選んだ道は正しいのか不安になります。それでも、様々な状況から一番良い方法を選び、決断したら自分を信じて前に進んでいきます」

雪山の登山が野球の考え方の基礎に

 なぜ、危険を冒してまで冬山に挑むのか。倉野監督には明確な答えがある。

「雪山を登っている時の心境を野球に置き換えています。追い詰められても弱さを見せず、考えて決断するところは雪山も野球も共通しています。課題や迷いに直面している選手の心理を想像して、どんなアドバイスをすれば不安を和らげられるのか思考をめぐらせます。柔軟に考えて、決断には信念を持つ。雪山の登山が野球の考え方の基礎になっています。私の肩書きはベースボールクライマーですね」

 ベストなルートを選ぶには、最初にあらゆる可能性を考える必要がある。だからこそ、倉野監督は自分の考え方に固執しない柔軟性を持つ。年齢が4回りも離れた選手の意見に耳を傾ける。

当初は代打を送るはずだったが、主将の提案に

 今春のセンバツ切符をかけた東海大会の決勝で、倉野監督のスタンスを象徴するシーンがあった。

 愛工大名電は9回に3点を奪って1点差に迫り、なおも2死満塁のチャンスをつくった。倉野監督が描いたシナリオは「左の代打」で同点、逆転だった。ところが、主将から声をかけられる。

「監督、最後は上級生で勝負してください」

 指揮官が返答する。

「相手投手の特徴を考えると、左打者なら四球で同点か甘い球を打って逆転サヨナラできる可能性が高い。右打者は厳しいぞ」

 それでも、主将はチームの思いを代弁するように訴える。

「上級生に託してください」

 倉野監督はうなずき、代打の起用をやめた。結果的には打者がセンターフライに倒れて試合に敗れた。勝利の確率だけを考えれば経験豊富な指揮官の考えが正しかったかもしれない。だが、チームには今春のセンバツ、さらに夏の甲子園を目指す戦いと、まだ先がある。倉野監督は目先の1勝以上の価値を見出して、主将の言葉を尊重した。

「監督として勝ちに徹する戦い方もあります。ただ、決めたことは迷わず、勝敗の責任は監督が取る。負けたのは監督の采配ミス、1点差まで迫ってセンバツを決めたのは選手の力です」

本人の希望通り、外野→遊撃にコンバート

 甲子園常連校を長年率いる監督のチームと言えば、選手は四の五の言わず指揮官の方針を実行するイメージがある。しかし、愛工大名電の選手たちは倉野監督に自分の考えや要望を伝えている。

 チームの主軸を担う石見颯真選手のコンバートも一例と言える。

 倉野監督は石見選手を1年生の時から外野の一角で起用してきた。打力を高く評価し、性格的に外野手が向いていると判断した。ところが、昨秋の東海大会を終えて、石見選手から遊撃手に転向したいとの要望を受けたという。

「中学時代に投手と遊撃手だったことは知っていました。ただ、協調性や責任感に長けたタイプではないので、外野の方が打力を生かせると思っていました。東海大会で負けてから、石見が『チームの弱点は内野にあるので、自分が内野に入ってチームを強くしたいです』と言ってきました」

 倉野監督は本人の希望通りに外野手から遊撃手へコンバートした。

 自覚と責任感が芽生えた石見選手は、チームに守備の安定感や自信をもたらした。「駄目なら、すぐに外野に戻すからな」と伝えていた指揮官が「こんなにしっかりしたタイプだったのかと驚いています。石見が遊撃に入ってチームの雰囲気が変わりました」と信頼を寄せるまでの成長を見せている。

指導者が成功体験に引っ張られると、失敗してしまう

 愛工大名電は昨夏も甲子園に出場した。石見選手は3番に座っている。もし、内野手転向によって守備の負担が増えて打撃に影響が出れば、チーム力の低下は避けられない。チームを指揮する立場としては、計算できる選手を打線の中軸に据えて安心したい気持ちがある。

 だが、倉野監督は常に可能性を模索する。選手が毎年入れ替わる高校野球では、柔軟性を失うと選手の良さを生かせないと考えている。

「選手は能力も性格も違います。甲子園に出ると、その時の打順や投手起用をなぞろうとしてしまいがちです。例えば、3人の投手を3イニングずつ投げさせたり、1番から3番まで左打者を並べたりして甲子園に出た翌年は同じようにチームをつくって、同じ結果を出せると思ってしまうわけです。でも、同じチームをつくるのは不可能です。指導者が成功体験に引っ張られると、失敗してしまいます」

 甲子園出場や日本一の目標は毎年同じでも、チームづくりの方法は異なる。同じ山を登る時でも、天候によって判断やルートが違うように。

 愛工大名電は今春、12年ぶり10回目のセンバツに臨む。「昨夏に甲子園を経験したアドバンテージはありますが、そこにとらわれてはいけないと思っています」と倉野監督は語る。

 工藤公康やイチローに山崎武司、東克樹らプロで活躍する選手の高校時代を見てきた65歳の指導者は――まずは柔軟に考えて、方法を選択したら迷わず貫く。冬山を制すように、全国の頂点までのルートを描いている。

<第1回、第2回からつづく>

文=間淳

photograph by Jun Aida