春夏あわせて優勝9度。今では甲子園でも“常勝軍団”と呼ばれるまでになった名門・大阪桐蔭。センバツでも優勝候補に挙げられるチームで「背番号1」を担う平嶋桂知が中学時代に師事していたのは、33年前、センバツ初出場時のエースだった。初戦でノーヒットノーランを達成するなど日本に衝撃を与えた男が語った“令和のエース”の潜在能力とは。《NumberWebインタビュー全2回の前編/後編につづく》
大阪桐蔭の背番号1。最速154キロ。
今年のセンバツで注目の右腕に挙げられている平嶋桂知は、東京の稲城シニアから初めてこの名門へと進み、エースとなった。
彼の出身チームでコーチを務める和田友貴彦は、ようやく教え子を母校へと巣立たせられたことに胸をなでおろしている。
「『いい選手がいれば送り出したいな』とは思っていたんですけど、ずっと出てこず。そこで平嶋が入って、『この子いいな。もしかしたら』と期待はしていたんですよ」
33年前、センバツ初出場時のエースとの邂逅
和田は、大阪桐蔭が初めて甲子園に出場した1991年にエースだった。
センバツの初戦で史上10人目となるノーヒットノーランを達成する衝撃デビューを飾り、チームもベスト8に進出。夏にも甲子園の切符を掴んだ大阪桐蔭は、創部4年目にして初出場初優勝の快挙を成し遂げた。
高校を卒業後は、東洋大を経て東芝府中でプレーし4年で現役を退いた。そこからは社業に専念する傍ら、2015年に息子が稲城シニアに入団したことがきっかけで、社会人野球時代の後輩で同チームの監督である森川博紀に誘われ、コーチをすることとなった。
その4年後。和田は平嶋と出会った。
シニアの練習会に来ていた小学生は、参加者のなかでひときわ大きかった。幸運なことに平嶋が所属していた久我山イーグルスの先輩が稲城シニアにいたこともあり、監督の森川とともに「一緒にやろう」と誘うと「入ります」と快諾したという。
小学生の時点で体格に恵まれていることは大きなアドバンテージとなるが、和田は「当時は、ただデカかっただけ」と笑う。
「ピッチャーとして球は速かったけど、コントロールは悪かったし、変化球も曲がらなくて。小学校で多分、急激に体が大きくなったから、筋肉とか他の部分の成長が追い付いていなかったんですね。なので、入団した当初からひじの状態があまりよくなかったんです」
中学における平嶋のスタートは野手だった。
そうはいっても、「ひじがよくないから」という消去法からの選択ではなく、トレーニングを積ませ、体の成長とともにピッチャーへも移行させると、チームは決めていた。
監督の森川が決めたプランはこうだ。
「普段は野手中心の練習をさせながら、ピッチャーとしても筋トレやランニングをさせながらケアをさせて。3カ月スパンくらいで体の状態を確認していました」
なにより平嶋は、バッターとしても規格外のパワーを有していた。
本来の右打席だけでなく、左打席でも長打が出る非凡なバッティングを見抜いていた森川は、小学生時代にファーストだった平嶋を「そこしか守れないと高校に入って苦労する」とサードにコンバートさせ、センターに就かせることもあった。
バッティングに際し、森川が平嶋にアドバイスしていたことはひとつ。「低めを振るな」。これだけだったという。
「低めを振ることが多かったんです。『変化球を狙って打たない限り、そこを振ったってゴロにしかならないんだから』と。桂知は身長があったんで『打てるなら、高めをどんどん振っていけ』と言っていました」
指導陣の平嶋評は「センスはなく不器用」だが…?
和田と森川に共通している「平嶋評」は、言葉だけを捉えるなら辛辣だ。
「センスはなく、不器用」
ただし、ここには「でも」が付随する。和田が平嶋の本質を語る。
「真面目で練習熱心なんです。僕らが言ったことは手を抜かずにやりますし、『なんとかしてうまくなりたい』という気持ちを表に出してくれるような子ですね」
勤勉でひたむき。2年生となり、少しずつピッチャーとしての練習を増やしていった平嶋は、その素質が芽吹き始めていく。
和田のピッチャー指導の鉄則のひとつに軸足の安定がある。
右腕の平嶋で言えば、右足をふらつかせずしっかりと立つことができていれば、そこからの重心移動からフォロースルー、ボールをリリースするところまで大きく崩れることはないのだという。当時の平嶋は上半身がまだ細かったため、和田は「とにかく腹筋を多くやらせた」そうだ。
「シニアの練習は土日だけでやれることに限りがあるから、最低限のことだけやらせた感じですかね。でも、平嶋の場合は体幹を鍛えるために、平日は自発的にジムでトレーニングしていました。そういう向上心は、もともと持っている子でしたから」
まだひじの具合が万全ではなかったため、試合では「1イニング限定」と制限していたこともあり、ピッチャーとしてはまだまだ成長の途上にあった。ここでも和田は、マウンドに立つ平嶋に細かいことを指示せず、ひとつのことだけに集中させたという。
「低めに投げるな」
まるで、「バッター・平嶋」の時のような心構えを与えたのである。
長期的な目線の指導が結実。チームの絶対的柱に
「不器用なんで、低めを意識させるとショートバウンドとか、ボール球が多くなっていたんです。平嶋は身長が高いからボールに角度があるし、高めに投げても抑えられる。変化球にカットボールがあって、チェンジアップもだんだん決まるようになっていたから、『真っ直ぐは高めに』を徹底させました」
シンプルに、伸び伸びと。
そんな“二刀流”育成を経て、平嶋は2年生秋の新チーム発足時からチームの絶対的な柱となった。エースでキャプテン。指導者、仲間たちからも全幅の信頼を得るまでの選手となったのである。
キャプテンに任命した森川が、チームとしての総意を説明する。
「キャプテンにしたのは、『桂知を中心にすればチームは頑張るし、強くもなる』と思っていたからです。ピッチャーも、3年になる頃には完投できるまでひじもよくなったので、ユキさん(和田)と話をして『今年(2021年)は桂知を軸にする』と決めました」
2年生の秋と3年生の春の公式戦では早々に敗退したが、5月のゴールデンウィーク中の紅白戦でのピッチングを見た和田は、「ある程度、まとまってきた」と、エースとして試合を託せるレベルにあると手応えを掴んだ。
この時点で最速は135キロ。身長185センチ、体重85キロと、体型も現在とほぼ同じくらいに成長していた。そんな彼のもとには、日大三や国士舘といった、東京の強豪校から誘いの声が届くようになっていた。
和田が平嶋から本心を聞いたのは、3年生のこの時期だったと記憶している。
「2年生の新チームになってからは、『どこに行ってもそれなりにやれるだろう』と思っていたなかで、平嶋は最初、ぼんやりと『西のほうでやりたいです』と言っていたんです。そうしたら、最終的に『大阪桐蔭で勝負してみたいです』と言われまして」
日本代表クラスの手練れが全国各地から集結する大阪桐蔭だけに、このタイミングはどちらかと言えば遅かった。
和田がすぐに母校の野球部とコンタクトをとると、コーチの石田寿也が試合を見に来てくれると言った。
この時、和田は自信を持って伝えた。
「絶対に、損はさせないので」
平嶋は一発勝負の舞台で魅せた。ピッチャーとしては打球が右手に当たったことで降板したが、バッターでは本職ではない左打席でバックスクリーンに叩きこんだのである。
試合からしばらくして、和田のもとに電話が入る。大阪桐蔭の西谷浩一監督からだった。
「平嶋君の面倒を見させてください」
「甲子園で俺の記録を抜けよ」「はい!」
春夏合わせて9回の日本一を誇る名門への進学を決めた平嶋は、夏に結果を残した。
キャプテンでエース。そして、「一番いいバッターだから多く打席を回したい」という森川の意向により、1番バッターとしてもチームを牽引。稲城シニアにとって初となる日本選手権に出場し、ベスト4まで勝ち進んだ。
進学と大会の両方で「初」の実績を築き、稲城シニアを卒団した平嶋は、大阪桐蔭2年時の昨年に最速となる154キロを計測し、早くも「プロ注目」と呼ばれる存在となった。新チームとなった秋には、エースとしてチームトップの10試合に登板し、近畿大会優勝に不可欠なピースとして機能した。
今年の松の内。大阪から帰省中だった平嶋に、和田は冗談交じりに注文を付けた。
「甲子園で俺の記録を抜けよ」
教え子が威勢よく「はい!」と答える。おいおい。和田が目を丸くしながら返す。
「抜くってことは、完全試合だからな」
文=田口元義
photograph by (L)JIJI PRESS、(R)Asahi Shimbun