ロサンゼルス・ドジャースの一員として新たなスタートを切った大谷翔平(29歳)。全米を揺るがすトラブルに見舞われながらも、本拠地開幕戦での第一打席では異例のスタンディングオベーションで迎えられるなど、大きな期待感が揺らぐことはない。2024年の戦いが始まった今、獲得レースの熱狂と大谷の決意を振り返る。
 本稿は、エンゼルス加入時から大谷の取材を続ける番記者、ジェフ・フレッチャー氏の著書『SHO-TIME2.0 大谷翔平 世界一への挑戦』(訳・タカ大丸、徳間書店刊)の抜粋した記事です(全2回の後編)。

 ドジャースタジアムのすぐ外で開かれた記者会見で、ついに大谷翔平は新天地でのユニフォーム姿を披露した。全世界から集まった約300人の報道関係者とテレビ視聴者の前である。

 そこで、ドジャースを選んだのには、「多くの理由がある」と彼は語った。そのうちの1つは、オーナーのマーク・ウォルターと野球部門最高責任者のアンドリュー・フリードマンの存在だったという。

 この2人に対する何よりの信頼の証が、もし2人のどちらかが組織を離れたら契約を大谷側から破棄できるというオプトアウト条項だ。俗に「キーマン条項」と呼ばれるもので、前例がないわけではないが、非常に稀なのも事実だ。

今は亡きスーパースターの言葉

 ウォルターとフリードマンは、大谷獲得のために大変な労力を投じていた。そのなかに、伝説のバスケットボール選手で、ロサンゼルス・レイカーズのスーパースターだったコービー・ブライアントが、2020年にヘリコプター事故で亡くなる前に残した動画メッセージがあった。もともとは、2017年の時点で大谷を獲得するためにドジャースが用意していたものだった、と「ESPN」は報じている。

 ドジャースはこの動画を保存していて、少し笑いも込められたブライアントのメッセージを2023年の大谷に見せた。ビデオのなかで、ブライアントは、勝つためにはロサンゼルス以上に勝ちやすい場所はなく、ドジャース以上に勝ちを目指しやすい野球チームはないと熱く語っていた。

「あれこそミーティング全過程のなかで、ハイライトともいえる場面でしたね」

 大谷は「ESPN」にそう語った。

「僕もあの映像を見て驚かされました。強烈で心にふれるメッセージでしたよ」

 このメッセージが大谷の琴線にふれたのは、彼の最優先事項がまさに“勝つ”ことだからだ。

「僕があと何年、現役選手でいられるかはわかりませんが、だからこそ勝つことを最優先にしているのです。そこが僕のなかで最優先事項で、そこは今後も変わらないので、それがこのチームを僕が選んだ理由の1つです」

 エンゼルスとは正反対にというべきか、ドジャースは11年連続でプレーオフ進出を果たしており、地区優勝10回を達成している。

 2023年には、ドジャースは100勝を達成し、メジャーで2番目の勝利数を誇っている。だが、この11年でワールドシリーズ制覇は1回だけだ。2022年と2023年、ドジャースはプレーオフの第1ラウンドで、どう見ても格下の相手に負けてしまった。

 2020年、新型コロナウイルスのパンデミックにより短縮されたシーズンでは、やっと悲願のワールドシリーズ制覇を果たしたが、2017年と2018年にはワールドシリーズで敗れている。チームはせっかくレギュラーシーズンで圧倒的な強さを見せても、その強さをポストシーズンの勝利につなげることができていない。

 この点を、ドジャース経営陣は大谷に対して「失敗」と語ったという。ドジャースはまだ満足していない、という点が大谷の心に響いた。大谷はこう語った。

「マーク・ウォルターさんも含めて、ドジャースが経験してきたこの10年間を、彼らはまったく成功だと思っていないとおっしゃっていたので、それだけ勝ちたいという意志が強いんだなというのは心に残ったかなと思います」

知られざる名門球団の苦悩

 ドジャースは、2020年のワールドシリーズ制覇まで30年以上の時がかかった。これはメジャーリーグ屈指の名門球団としては、決して喜ばしくない、長すぎる不毛の期間である。

 球団は、もともとニューヨーク市の一部、ブルックリンで始まった。

 創設は1883年で、最初のプロチームが試合をしてからわずか15年後のことだった。初期のころはさまざまな名称で知られていたが、最終的には、1911年にドジャースとして定着した。

 これは「トローリー・ドジャース」、つまり、 世紀末にブルックリン全体に張り巡らされた「路面電車を避ける人」の略称だ。

 ブルックリン・ドジャースは、 世紀前半には近所のニューヨーク・ヤンキース、およびニューヨーク・ジャイアンツの陰に隠れ、著しい苦戦が続いた。

 ドジャースがやっと強くなり始めたのは、1940年代にブランチ・リッキーが社長となってからのことだった。彼は野球界に名を残す伝説的経営者の1人で、最大の功績としては、1947年に初の黒人選手となるジャッキー・ロビンソンとメジャー契約したことがあげられる。また、リッキーはマイナーリーグの組織強化にも大きく寄与した。

 ブルックリン・ドジャースは1955年、ついに、ヤンキースを下して初のワールドシリーズ優勝を果たした。そして、これがブルックリンでの絶頂期だったが、間もなく市と新球場に関する合意に至ることができず、本拠地に別れを告げることになる。

 1958年に、ドジャースはロサンゼルスに移った。ニューヨーク・ジャイアンツもあとを追うかのように、サンフランシスコへ移転した。

 これにより、メジャーリーグが東海岸から西海岸まで初めて広がったことになる。そして、新しい西海岸の本拠地で、ドジャースは大きく花開く。

 勝利の実績と観客動員数の両方で、大きな成功を収めた。ドジャースタジアムは、ロサンゼルスのダウンタウン近くの丘にあるが、メジャーリーグ球場のなかでもっとも見栄えがよいスタジアムとされている。

 ドジャースは、ロサンゼルスでの最初の30年間に9回のワールドシリーズ出場を果たし、5回優勝した。

 1988年のワールドシリーズでは第1戦に、カーク・ギブソンが決勝本塁打を放った。これは、メジャーリーグ史上もっとも有名なホームランのうちの1本である。

 1995年に、右腕投手の野茂英雄が日本を離れてドジャースと契約し、その後、日本人選手がメジャーに渡る道を切り開いた。

 野茂マニアがロサンゼルス全体を席捲し、ドジャースのファンは本塁に背中を向けてから投球する独特のフォームに熱狂した。

 数十人の日本人記者が野茂とドジャースを追い、その後、日本人選手がアメリカで 活躍したときの取材パターンをつくり出した。イチロー(鈴木一朗)、松井秀喜、黒田博樹、田中将大、ダルビッシュ有……そして、大谷翔平といった日本人スター選手を追いかけて報道するときの作法となったのである。

 大谷が2023年に自らチームを選ぶ機会を手にしたとき、多くの人が強豪名門球団、たとえばヤンキース、レッドソックス、ドジャースといった球団を選ぶことを期待していた。

「大きな難題に直面するでしょうし、直面したい」

 この9カ月前、大谷は日本代表をWBCで優勝に導いた。マイク・トラウトを三振に斬って取り優勝を確定させたときには、グラブを中空に投げ、雄たけびを上げた。

 あの優勝の瞬間は、人生で最高の瞬間だと彼は述懐した。だから、大谷が新しい球団で「世界一」のあの感動を、もう一度と願うのは当然のことだろう。

「当然ながら、僕は優勝したいです」

 大谷はドジャースタジアムでの記者会見で明言した。

「あの優勝したときの決勝戦を思い出すと、みなさんには僕が主力選手だったと記憶してほしいと思います。僕は大きな役割を果たしたと思っています。優勝チームの中心選手でした」

 メジャーリーグで最終的に優勝するのは、並大抵のことではない。

 それは、ドジャースの近年の10月における「失敗」が何よりの証拠だ。

 大谷は、このチームに加わることにより、待ち構えている難問がいかなるものかをよくわかっているように見えた。そして、こう語った。

「僕はもっと挑戦したい。僕はこのドジャースでさらに新しくて大きな難題に直面するでしょうし、直面したいです。僕はもう覚悟しています」

文=ジェフ・フレッチャー

photograph by ZUMA Press/AFLO