40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第16回(前編・後編)、41歳落合博満との“4番争い”に敗れ、37歳原辰徳が現役引退を決意するまで。現役生活最後に原が感じた“孤独”とは?【連載第16回の前編/後編も公開中】

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長嶋監督の苦言「タツは立場が分かっていない」

「ああ、どうしてだ! なんでだ! もう辞めてやろうかと癇癪が出かけたんですよ。そのときにユニホームの胸のGIANTSの文字が目に入った。これを見たとき、小さいころからジャイアンツのユニホームを着てプレーするのが夢だったことがぱっと頭に浮かんでね。我に返ったんですよ。自分だって十五年やってきて巨人軍が自分を作ってくれたという感謝と恩があります。そういうジャイアンツに後ろ足で砂を引っかけることができるのかと……。そういう風に考えたらすごく楽になりましたね。それで、もういいと……。自分はあってないものだと……」(週刊読売1995年11月12日号)

 1995年5月30日ヤクルト戦、2点を追う9回裏一死満塁の一打逆転サヨナラのチャンスで、打席に向かおうとした原辰徳は代打を送られた。36歳の背番号8は、屈辱と怒りの中で、己の置かれた立場をついに受け入れたのだ。

 前年に落合博満がFA加入すると、内野のレギュラーポジションを失った。だが、日本シリーズで落合が負傷欠場すると代役4番を務め、チームは日本一の大団円でシーズンを終えた。1995年のキャンプで首脳陣には、原を一塁とレフトで併用する構想もあったというが、本人が一塁専任を強く希望。これに長嶋監督が、「タツ(原)は自分の立場がわかっていない。ポジションを選り好みしていて試合に出られるか」(週刊新潮1995年5月25日号)と苦言を呈したという報道もあった。

 オープン戦ではチームトップの3ホーマーを放ち、開幕前の激励会の壇上では、「レギュラーで出場できるかどうかわからないけれど、自分の仕事はわかってるし、今年はその自信もあります」(週刊文春1995年4月20日号)と新シーズンの目標に「本塁打30本」を掲げてみせた若大将。しかし、開幕後の原は序盤に正三塁手のジャック・ハウエルの負傷で数試合のスタメン出場はあったものの、シーズン第1号は、落合の欠場により「5番一塁」で先発出場した5月3日の阪神戦まで出なかった。あくまで落合やハウエルの控えという残酷な現実がそこにはあった。

「(落合さんには)絶対に負けないから…」

 背番号8はそのキャリアを通して、マスコミから常に「勝負弱い4番」のレッテルを貼られたが、実は1980年代のセ・リーグで最も本塁打を放ち、多くの打点を記録したのは、山本浩二(広島)や掛布雅之(阪神)ではなく、「274本塁打、767打点」の原だった。

 しかし、同じく80年代にロッテと中日でセ・パにまたがり「340本塁打、948打点」というひとり別次元の成績を叩き出したのが落合である。

 80年代中盤、オレ流スラッガーの巨人へのトレード報道は毎年のストーブリーグの風物詩だった。王貞治が現役引退して間もない当時はまだチーム内外で「巨人の4番は日本の4番であるべし」という価値観も強く、落合待望論は裏を返せば原への物足りなさを意味していた。「週刊ベースボール」1984年9月17日号掲載の特集「王監督が狙う“巨人改造計画”の中身」では、原を外野にコンバートして、落合をトレード獲得へ。予想オーダーは「4番落合、7番原」と書かれている。この前年、原は打点王を獲得してチームをリーグ優勝に導いたにもかかわらずだ。いわば、5つ年上の三冠王男は、80年代の巨人を背負う原にとって強く意識する存在だった。

「落合さんがね、三冠王の看板をひっさげてロッテから中日に移ってきたときですが、あのころまだ元気だったシノさん(篠塚利夫)と話し合ったんですよ。ボクは絶対にホームランでは負けないから、シノさんも打率で頑張ってほしいってね。で、あの年は両方ともボクらが勝って……」(週刊読売1995年11月12日号)

 1987年の原は、中日1年目・落合の28本塁打を上回る34本塁打を記録。「人が人を作る、というか、あの年はそんな感じだったですね」とオレ流から受けた刺激を認めているが、この7年後にふたりの野球人生は長嶋巨人を舞台に交差する。

「あのときサードへ行く気になれなかった」

 思えば、原は過去の偉大なONだけでなく、常に同時代を生きる落合とも比較され続けてきたわけだ。もちろん、現役最後の1年となる1995年シーズンも変わらずである。41歳で堂々と4番を張る背番号6とは対照的に、背番号8は打率1割台と低迷。ホームランも6月7日の横浜戦で第3号を放って以降は途絶えていた。

 切れかかった気持ちをなんとか繋ぎ止めようと、若手陣が早出の特打ちでグラウンドを使用するのを横目に、原はブルペンのマシンでひとりでボールを集め、機械をセットして、黙々と打ちこんだ。

 8月のある試合、ハウエルが家庭の事情で帰国し、スタメン三塁が不在となった。長嶋監督は前日まで左翼を守り、打撃不振に喘ぐ広沢克己を三塁に起用する。このとき、原は試合前練習で落合の控えとして一塁守備についていた。なお、その翌日の三塁は若手の吉岡雄二が抜擢されている。吉岡は原が海外自主トレに連れて行き、可愛がっていた後輩のひとりだった。首位ヤクルトの背中が遠のき、世代交代を推し進めるチームに居場所もなくなっていく。初夏に37歳の誕生日を迎えた背番号8は、FA組や若手の後塵を拝し、もはやほとんど構想外のような扱いである。

「スタメンを決めるのは首脳陣の仕事で、ボクがとやかくいうことじゃないし、それまで打っていなかったボクが悪いんだ。けど、あのときボール回しでサードへ行く気にはなれなかった。いけないことなんだけど……」(週刊読売1995年11月12日号)

「今季限り、原辰徳引退」報道

「7番三塁」で久々に先発した8月17日の広島戦では、10回表一死満塁のチャンスであえなく空振りの三振に倒れる原の姿。試合後は悔しさからか目を真っ赤にして一言も発せようとせず、担当記者たちも近寄りがたい雰囲気だったという。一方で4番の落合は、その試合でシーズン10度目の猛打賞を記録。にわかに最年長首位打者の可能性も騒がれ出す。この頃の落合からは、野球をとことん突き詰める打撃の職人のようなストイックさと凄味すら感じさせた。

「若いころはパワーや勢いがあったから、理想のフォームでなくても打てたし、タイトルも取れたんだよ。でも、年を取ると、そういうわけにはいかなくなってくるんだ。打つためにはより完璧なフォームを求めることになるんだよね。それに、経験を積めば積むほど技術レベルは上がってくるから、あそこが足りない。ここが足りないと考えるようになる」(週刊ポスト1995年6月23日号)

 年齢を重ね体力は落ちるが、そのときの自分に合わせ己の打撃を変化させ、進化させればいい。そんな底知れぬオレ流との4番争いの果てに、選手・原辰徳の夢の終わりは近づいていた。

 そして、8月21日、複数のスポーツ紙の一面で、ついに「原引退」が報じられるのである――。

<続く>

文=中溝康隆

photograph by KYODO