日本プロボクシング史上屈指のテクニシャンとして知られ、「アンタッチャブル」の異名をとった川島郭志。高く評価された防御技術を武器に世界王座まで上り詰めた川島の原点には父の指導があった――。 ※初出はNumber963号(2018年10月11日発売)掲載の連載「[私を通りすぎた王者たち。]#36 川島郭志」。 肩書き、年齢は掲載当時のもの

ボクシング不毛の地・徳島に生まれて

 四国からは長らくチャンピオンが出ていなかった。著名選手といえば、愛媛出身で昭和三十年代に活躍した三迫仁志、同じく四十年代の門田新一ぐらいで、いずれも世界には届いていない。初の世界チャンピオンは平成の時代まで待たなくてはならなかった。1994年5月4日、横浜文化体育館で行われたWBC世界J・バンタム(S・フライ)級タイトルマッチで川島郭志がメキシコの王者ホセ・ルイス・ブエノを3−0判定で攻略。川島は四国の中でも特にボクシング不毛の地といわれた徳島県の出身だった。

 四国に突然変異のように天才が現れたのではない。その前段階として、父親の存在があった。ボクシング好きの父親の影響で息子がボクサーの道を歩み始めるケースは昔から珍しくない。今の時代はさらに熱心な父たちがトレーナーとなって幼い頃から息子を指導し、やがて試合のセコンドにも付く。井上尚弥と田中恒成、少し前だと亀田3兄弟はいずれも父親が師となり、その情熱が息子たちを世界チャンピオンに押し上げる原動力となったといっていいだろう。父親たちがボクシングの選手経験、指導経験がほとんどないにもかかわらず、世界の頂点に立たせたのだから、つくづく感心してしまうのである。

スパルタ式で防御技術が身についたという冗談も

 今では親子の師弟関係はどこにでもみられるようになったが、そのパイオニアともいうべき存在が、徳島の川島ファミリーである。海部郡海部町(現海陽町)で理髪店を営んでいた父・川島郭伸は、大のボクシング好きで、アマチュアの試合の審判を務め、42歳でアマの試合に出て話題になったこともある。男の子が誕生したらボクサーに育てると決めていたから、5歳上の兄志伸同様、郭志も父の手ほどきでボクシングを始めた。庭にサンドバッグを吊るした簡素な練習施設を作り、2人の息子を鍛えた。兄志伸は奈良でプロになったが、世界には届かず20歳で早々と引退。その後は弟の陰で心の支え役を務めた。

 郭伸の指導法は俗に言う「スパルタ式」で、時に手が出るのも当たり前。のちに「アンタッチャブル」と呼ばれた川島の防御技術は父の平手打ちをかわしながら身につけた――というのは今になって郭志が口にする冗談である。

「アンタッチャブル」の由来

 ボクシングでは「打たせずに打つ」のが理想だが、日本のチャンピオンには攻撃に重きを置いたファイター型、ボクサーファイター型が多い。そんな中でボクサー型、特にディフェンスで魅了した最初のチャンピオンとなったのが川島である。「アンタッチャブル」と異名を取ったのは、相手のパンチを目と鼻の先でかわし、時に打たれたように見えても、顔を反らせて相手のパンチの衝撃を散らしたからだった。

 元々この「アンタッチャブル」はニコリノ・ローチェの専売特許だった。無類の防御技術を駆使して藤猛のハンマーパンチをかわしまくり世界J・ウェルター級王座を奪ったアルゼンチンの技巧派は、日本のファンに攻撃以外にもボクシングの魅力があることを知らしめた。川島はローチェと異なりサウスポーのテクニシャンだったが、テクニック重視のボクシングはローチェと共通するものがあった。

「三羽がらす」

 川島スタイルが確立するのはずっと後のことだが、中学生当時活躍していた5階級王者シュガー・レイ・レナードの華麗なボクシングに憧れ、オーソドックスのレナードを頭の中でサウスポーに置き換えて真似をした。高校生の試合では時にはノーガードでかわすなど、徳島のテクニシャンはアマの世界で注目を集めた。87年、海南高校3年生の全国高校総体でフライ級に出場し優勝。準決勝で鬼塚隆(勝也)を、決勝では渡久地隆人(後のピューマ渡久地)を破って優勝を飾っている。この鬼塚と渡久地、そして川島の3人はともに高校卒業後にプロに転向し、「三羽がらす」として期待を集める。川島もまた、鬼塚と渡久地に対しライバル意識を燃やしていた。

 「フライ級三羽がらす」と呼ばれたのは、昭和三十年代半ばのボクシング黄金期に活躍したファイティング原田、海老原博幸、青木勝利のライパルたちだった。これに匹敵する存在との期待も込めて、鬼塚・川島・渡久地のトリオは「平成の三羽がらす」と名付けられたのだ。ところが途中で川島の代わりに辰吉丈一郎を当てて「平成の三羽がらす」と呼ぶメディアも増えた。アマ時代からの因縁を考慮すれば、最初からバンタム級だった辰吉よりは、鬼塚・渡久地の2人と対戦歴があり、いずれも勝っている川島の方がライバルに相応しいと思える。

出世レースから脱落

 それでも川島を外して辰吉がトリオに加えられたのにも根拠はあった。プロでスタートして間もない時期に2度の手痛い敗北を経験し、出世レースから脱落しかけたことが響いたのに違いない。しかし、この大きな挫折こそが後の「アンタッチャブル川島」を生む大きなバネとなったのである。

 特に最初の敗北は痛かった。88年にプロデビューを果たし、3連続KOで東日本新人王フライ級決勝戦に進出。ここで顔を合わせたのが、アマ時代からのライバル渡久地だった。

 2人の激闘は新人王史に残る名勝負となる。プロになって予想以上に成長していたライバル相手に苦しい戦いを強いられた、最終6ラウンド、渡久地の猛攻に川島はサンドバッグ状態になり、レフェリーストップ。渡久地のリベンジヘの強い思いが川島のテクニックを粉砕した結果となった。当時の川島はフライ級では体重がきつく、初めての東京で1人暮らしのストレスもありつい食事量が増える。試合前に負けていたと反省した。

一部からは「終わった選手」の烙印も

 プロ初黒星を喫した川島は、その傷心を癒せなかったのか、翌年のA級トーナメントでもいきなり躓いた。同姓の川島光夫という関西の中堅選手と対戦し、まさかの初回KO負け。ほぼ同時に放った右はほんの一瞬相手のパンチが早く、まさかの10カウントを聞く。これで川島は一部からは「終わった選手」の烙印を押されたが、本人は諦めなかった。自分の夢を維持できたのは、ヨネクラジムの環境の良さもあった。ジムの大先輩大橋秀行や仲間たちにも刺激を受けた。

 その後はボクシングそのものを大改造することはなかったが、よりフットワークを用いて、右を放つ際に下がりがちな左手のガードを高く保つことを意識した。そして何よりも試合中相手から目を離さずにいる集中力を徹底させた。安定したボクシングヘの飛躍はそれからである。

実は強打者、KO率は58%

 試練は2度の敗北に留まらなかった。今度は試合中に左拳を骨折し、1年のブランクを余儀なくされた。91年のアラン田中戦で5回KO勝ちした試合だ。よく強打者は手を痛めやすいという。川島というと技巧派のイメージが強いあまり、強打者としての面は顧みられることはないが、本人は自分にパンチがないと思ったことはない。実際24戦20勝(3敗1分)の中でKO勝ちは14度もあり、KO率58%は決して悪い数字ではない。92年7月13日に小池英樹を判定で破って日本王座についてからは、3度の防衛戦すべてで規定ラウンドを要さずにKO勝ちしている。

天国の母ちゃんが取らせてくれたベルト

 そして迎えたボクシング人生のクライマックス。世界初挑戦のブエノ戦は終盤まで接戦を展開――といってもこれは試合後明らかになった採点表の上でのこと。実際は川島が巧みにブエノの強打をブロックして自分のペースで戦っているように見えた。このまま微妙な判定に持ち込まれるかと思われた11回に川島の左フックのカウンターが決まり、チャンピオンはたまらず尻もちをついた。これが決め手となり、3−0判定勝ち。川島の腰にグリーンの世界チャンピオンベルトが巻きつけられた。もし11回のダウンで「10−8」と取っていなければ、判定は引き分けとなり、川島の新チャンピオン誕生はなかった。それほど際どいものだったのだ。神がかり的なダウンで、「天国の母ちゃんが取らせてくれたベルト」と川島はすでに亡くなっていた母志津子に改めて感謝した。父が厳しく指導した分、母の優しさにすがることが多かったのだ。

今の僕があるのも親父がいたからこそ

 その後は6度の防衛を果たし、97年2月20日、比国のサウスポー、ジェリー・ペニャロサに僅差の2−1判定を落とし王座を明け渡す。この時川島は27歳。試合内容が内容だけに再戦あるいは今なら階級を上げて現役を続ける手もあったが、チャンピオンになってからの川島は早くから「負けたら引退」と決めており、これがラストファイトになった。

 東京・大岡山に川島ジムを開いたのは引退から3年後。これまでに日本ウェルター級チャンピオンの有川稔男を育て、その傍らテレビ解説や講演などの活動も続ける。

 かつて 「川島兄弟は親父に嫌々ボクシングをさせられた」と言われたこともあったが、今、川島はこれを否定する。「今の僕があるのも親父がいたからこそで、感謝しかないです」

川島郭志Hiroshi Kawashima

1970年3月27日、徳島県海部郡生まれ

[戦績]24戦20勝(14KO)3敗1分

[獲得タイトル]WBC世界ジュニア・バンタム級王座

 2歳半から父のスパルタ教育を受け、徳島・海南高3年時にフライ級でインターハイ優勝。1988年8月にプロデビューを果たすと、94年5月に世界初挑戦でWBC世界ジュニア・バンタム級王座に輝いた。97年2月、7度目の防衛戦となったペニャロサ戦で判定負けを喫し、王座陥落。そのまま現役を引退し、現在は後進の育成に努める

文=前田衷

photograph by Keiji Ishikawa