20年前、ドラフト史上最年少の15歳で指名を受け、阪神タイガースに入団した辻本賢人。だが、入団後は幾度も故障に見舞われ、プロ野球選手としてのキャリアは順風満帆とは言えなかった。それでも辻本が「プロ入りをまったく後悔していない」と語る理由とは。「怒ってくれる人からは、愛を感じました」。笑顔でそう振り返る阪神時代に迫った。(全3回の2回目/#1、#3へ)

15歳でのプロ入りは“時期尚早”だったのか

「15歳のプロ野球選手」が誕生したのは今から20年前である。2004年11月に阪神からドラフト8巡目で指名された辻本賢人は、タイガースでの日々をこう振り返る。

「自分の人生の中で起きたことやと、ホンマに思えないというのが、正直な話なんです。ホンマに自分やったんかなと。全然、違う人生やったように感じることがあるんです」

 神戸出身の彼は、遠くなった昔のことを柔らかい関西弁でよどみなく話す。

 あの時、周囲の期待に反して、辻本には厳しい現実が待っていた。年表風にまとめると、その苦闘ぶりが滲み出る。

05年 二軍戦5試合登板 0勝1敗 防御率11.37
06年 体作りのため公式戦登板なし
07年 二軍戦9試合登板 0勝0敗 防御率3.24
08年 二軍戦11試合登板 0勝0敗 防御率3.65 オフに育成選手契約
09年 第5腰椎疲労骨折のため公式戦登板なし オフに戦力外通告

 結論から言えば、辻本は阪神で大成しなかった。5年間はもっぱら二軍暮らしで、ウエスタン・リーグ25試合の登板にとどまった。力を発揮できないまま、タテジマのユニフォームを脱いだ。やはり、体力不足と判断し、「プロ入りは時期尚早」と懸念する声が正しかったのだろうか。

 だが、辻本は否定する。

「ずっとしんどかった思い出があります。5年間で、4年はケガをしていた感覚でしたね。そこは辛かったです。でも、まだ体ができてないのにプロ入りしたからだとは思っていません。当時から、僕の10倍くらいの練習量をこなしている高校野球の子もいっぱいいました。僕は球数も全然、投げていませんでしたし、ただ単純に体の使い方がヘタで、潰れるのが当たり前だったんです。未熟なのと、技術不足と。だから、誰かのせいでこうなってしまった、という感情は一切ないんです」

 話を聞きながら、初めて彼を見た日のことを思い出していた。05年1月、兵庫県西宮市の鳴尾浜球場で行われた新人合同自主トレには、自由獲得枠の能見篤史や岡﨑太一らに混じって、辻本の姿もあった。丸刈りの彼は青白い顔をしていて、寒さのため、頬が上気して赤くなっていた。

 その面持ちはあどけなく、まだ体の線も細い。どこか頼りなげに映った。しかも、いつもカメラに追われ、感情そのものを押し殺しているようでもあった。だが、やがて言葉を交わすようになると、物怖じせず、物腰も柔らかく、どこか大人びたところがあった。

「投げ方を教えてください」あの下柳剛に直談判

 彼も、周りの若手と同じように本気で一軍の晴れ舞台を目指していた。年長者しかいない、厳しいプロ野球の世界にもひるまず、飛び込んでいく。長いリーチをムチのようにしならせ、上から投げ下ろす。二軍の公式戦デビューは意外に早く、1年目の6月にはマウンドに上がった。土台となる体を鍛えながら、上達のためのキッカケを探る毎日だった。

 ある日、ベテランの下柳剛がグラウンドにいるのを見つけた。二軍の辻本にとって、めったに一緒になることがない一軍の先発ローテーションピッチャーである。

 胸が高鳴る。思い切って話しかけた。

「どういう投げ方をすればいいのか教えてください」

 すると、普段から人を寄せつけないオーラを放つ無口なベテランは姿を消した。だが、手にボールを持って戻ってきた。年の差は21歳。脂の乗ったサウスポーは、まだ駆けだしの若手を前にしても親身に接した。

 辻本は昨日のことのように憶えている。

「めっちゃ怖かったですよ。でも、絶対に行かなあかんと思っていました。ホンマに教えてほしかったんです。なにかヒントになると思いましたからね。下柳さんは『あのな』と言いながら、丁寧に教えてくれました。タイガースでは、僕がそうやって教えてもらいに行った時、教えてくれなかった先輩は一人もいませんでした」

 辻本は屈託がない。「まだ15歳だから」とか「まだヘタクソだから」といった引け目を感じても後ずさりせず、先輩の懐に入り込んでいく豪胆なところがあった。

 ある年の2月、高知県安芸市での春季キャンプ中にはこんなこともあった。練習後、ホテルの食事会場で、コーチ陣が集まって食事をしていたのが辻本の目に留まった。すると、コーチ陣と同じテーブルに座りにいったのだという。

「本当はちょっと居心地が悪いし、嫌な気持ちもあるんです。でも違うテーブルに行くのはもっと恥ずかしい。コーチと目が合ったら、絶対に行ってやろうと思ったんです。確か、二軍監督の木戸克彦さんだったと思いますが『お前だけやで、ここに座るの』ってあきれられたのを憶えています」

 普通なら、そそくさと離れた場所に座るところだが、堂々としたものである。

「もし腫れ物扱いされていれば、何も覚えなかった」

 辻本がルーキーだった2005年、一軍はリーグ優勝を果たした。金本知憲や今岡誠、井川慶や藤川球児ら球界を代表するスター選手がひしめいていた。二軍もまた、この年からウエスタン・リーグを連覇するなど、チーム全体が常勝期に入りつつあった。

 一軍選手にとって「15歳のプロ野球選手」など、気にも留めない存在である。だが、辻本が野球に真摯に向き合う姿勢を見せると、タイガースの先輩たちは壁を作らず、彼の思いを受け止めた。

「『15歳で指名されることは当たり前じゃないよ。高校でも大学でも、ふるいにかけられて、何とかプロ野球選手になれるものなんだよ』って、よく先輩には言われました。『すべてにおいてハングリーさが違う』ってね。それは嫌味じゃなく、僕のことを思って言ってくれていると感じていました。そんな中で、ちょっとずつ怒られるようになっていったんです。片づけから挨拶から、シンプルなことができなかったですから。ホント、よく怒られましたよ。もし腫れ物扱いされていれば、僕は一生、何も覚えなかったと思います。怒ってくれる人や引きずってでも助けてくれた人からは、愛を感じました」

 かつて「神童」ともてはやされ、将来を嘱望されたが、低迷が長く続くと、メディアなど、周りにいた人たちは波が引くように去っていった。辻本は挫折し、夢破れた。「15歳のプロ野球選手」は失敗だった。それが、彼の阪神での5年間に抱く世間の印象である。

 それにしても、「愛」などという言葉を取材で聞いたのはいつ以来だろう。不遇の時間を過ごしていたはずなのに、さらりとそう言った。

「球団の方には、すごく我慢していただけたという気持ちが強いです。もしも、僕がコーチだったり、編成部にいればもっと憤っているはずです。15歳で指名して世間の目もあるのにずっと故障ばかりして、もっとシャキッとせえよと。そうキツく言っているはずなんです。でも、怒る時は怒る、突き放す時は突き放すといった感じで、あの時の皆さんは大人の対応をしてくださいました」

 戦力外を伝えられた時、球団から意外な打診を受けた。

「通訳をやってみる気はないか」

 辻本は思わず耳を疑った。

 また人生の分かれ道がやってきた。

<続く>

文=酒井俊作

photograph by JIJI PRESS