数年前、栗東トレーニングセンターで取材を終えたあとのことだった。門から出ようとすると、道の向こう側から「こんにちは」と明るい声がした。自転車に乗った男前がこちらに笑顔を向けていた。

 藤岡康太騎手だった。

爽やかで、誰からも愛される騎手の訃報

 私は、兄の藤岡佑介とはフランスで食事をするなど何度も話したことはあるが、康太騎手には囲み取材をしたことがあるだけだった。彼は、私を含め、一緒にいた編集者のことも知らなかったはずだ。

 それでも、こちらが挨拶を返すと、「お疲れさまでした」と気持ちよく送り出してくれた。

 藤岡康太騎手はそういう人だ。爽やかで、誰からも愛される、素晴らしい騎手だった。

 その藤岡康太騎手が今年4月6日のレース中に落馬し、10日に亡くなった。35歳という若さだった。

 13日から、JRAの各競馬場に献花台が設置された。多くのファンがGIジョッキーの早すぎる死を悼み、手を合わせた。

 そうしたなか、クラシック三冠の皮切りとなる第84回皐月賞(4月14日、中山芝2000m、3歳GI)が行われた。無傷の3連勝でこのレースを制したジャスティンミラノ(牡、父キズナ、栗東・友道康夫厩舎)は、1週前追い切りまで、藤岡康太騎手が調教をつけていた馬だった――。

「1分57秒1」驚愕のレコード決着

 皐月賞で逃げて馬群を引っ張ったのはメイショウタバルだった。1000m通過57秒5というタイムがターフビジョンに表示されると、場内がどよめいた。超ハイペースだ。6馬身ほど離れた2番手はシリウスコルト、その2馬身ほど後ろに2歳王者のジャンタルマンタル、戸崎圭太が乗るジャスティンミラノは5番手の外につけている。

 3コーナーを回りながら、後続がメイショウタバルとの差を一気に縮め、4コーナー出口で呑み込んだ。

 直線入口でジャンタルマンタルが馬場の真ん中から先頭に躍り出た。ラスト200m手前で完全に抜け出し、そのまま押し切るかに見えたが、2馬身ほど後ろにいたジャスティンミラノが猛然と加速し、差を詰める。さらに外からコスモキュランダも伸びてきた。

 ジャスティンミラノは1完歩ごとにジャンタルマンタルとの差を縮め、ラスト3完歩のところで抜き去り、コスモキュランダの追い込みも封じ、先頭でゴールを駆け抜けた。

 壮絶な叩き合いでヒートアップしたファンの歓声はゴール後いったんおさまったのだが、勝ちタイムが表示されると、再びスタンドから声が上がった。

 なんと、1分57秒1というコースレコードの決着だったのだ。ラブリーデイが5歳時の2015年の中山金杯で記録した1分57秒8を、3歳馬が一気にコンマ7秒も短縮したのだから恐れ入る。

 首差の2着はコスモキュランダ、3着はジャンタルマンタル。1番人気に支持された牝馬のレガレイラは6着、藤岡佑介のミスタージーティーは10着だった。

「康太が後押ししてくれた」「この勝利は彼のおかげ」

 ジャスティンミラノから下馬した直後の戸崎はゴーグルをしたままで表情はうかがえなかったが、出迎えた友道康夫調教師の目には涙があった。

 検量室前で行われた勝利騎手インタビューに応えた戸崎の目は赤くなっていた。

「この馬に関して、藤岡康太ジョッキーが2週前、1週前と攻め馬をしてくれて、事細かく状態を教えてもらいました。最後の差も、康太が後押ししてくれたのかな、と。康太も喜んでいるんじゃないかと思います。康太、ありがとう、お疲れさまでした、と伝えたいです」

 友道康夫調教師は、共同会見の場に立つと、司会者が話し出す前に、こう切り出した。

「最初にひと言。先日の落馬事故で亡くなった藤岡康太君のご冥福をお祈りします。康太君は、うちの厩舎の調教を手伝ってくれて、この勝利は彼のおかげだと思います。本当にありがとうございました」

 途中、言葉が途切れ、ハンカチで涙を拭うシーンもあった。

「今日は、馬の名前ではなく『康太、康太!』と叫んでいました。1週前追い切りに乗ってもらって、『1週前としては最高です』と言ったのが、彼との最後の会話になりました。彼は、去年の秋くらいからこの馬の能力の高さを感じてくれていて、ここまで育ててくれました」

 新馬戦ではトム・マーカンド、2戦目となった前走の共同通信杯は戸崎が騎乗したのだが、藤岡康太騎手は、自身もトップジョッキーのひとりでありながら、自ら裏方の役割を買って出ていたのだ。マカヒキ、ワグネリアン、ドウデュースといった友道厩舎のダービー馬すべての調教に騎乗していた。

前日の中山グランドジャンプでも「康太、勝ったぞ!」

 皐月賞の前日の土曜日、阪神競馬場で兄の藤岡佑介がメディアの取材に応じた。まず、弟に関して心配してくれたことの礼を述べ、家族で無事に見送ったことを報告してから、次のように話した。

「生前から康太とは、一緒に乗っている以上、互いの馬に乗っかるようなこと、落ちたりすることもあり得ると話していたこともあり、受け入れられるのはほかの家族より早かったです。今まで楽しめていたことが、そうでなくなるのは康太の本意ではないと思うので、変わらずに楽しんでください」

 また、その日に行われた中山グランドジャンプをイロゴトシで制した黒岩悠が、ゴール前で勝利を確信し「康太、勝ったぞ!」と叫んだシーンがジョッキーカメラ映像に残されている。藤岡康太騎手より5期上の黒岩は、勝利騎手インタビューでこう言った。

「すごくいいやつで、今でも心がぐらぐらして考えられないんですけど、騎手をはじめ、馬に携わる人たちは、文字どおり命がけで競馬を盛り上げようとしています。彼もこれまで全力で、命がけで来ていました。これからは空の上でぼくたちを応援してくれると思うので、ファンのみなさんは、ひと言でいいので、康太に『お疲れさま』と言ってあげてください」

 そして最後に「お願いします」と頭を下げた。

天国の藤岡康太騎手と一緒に…

 ジャスティンミラノはストライドが大きく、過去2戦東京で完勝していたことからも、早くからダービー向きと見られていた。取りこぼすとしたらここだろうと思われていた皐月賞で強い勝ち方をしたのだから、当然、二冠への期待は高まる。戸崎は言う。

「今日もパワーアップしていましたし、賢いし、距離が延びていい馬です。ぼく自身はダービーでは2着が2回なので、またチャンスのある馬にめぐり合えたことを感謝しながら、ダービーまで過ごしていきたい。この馬とともに勝って、いい景色を見たいですね」

 友道調教師も「馬は成長してくれている。皐月賞の前からダービーのほうが競馬はしやすいと思っていましたし、二冠を狙っていきたい」と話している。

 史上稀に見る大混戦と言われた今年の牡馬クラシック戦線が、皐月賞のゴールと同時に「一強」になった。昨年も、ソールオリエンスが同じく3戦3勝で皐月賞を制し、混戦から一強になった。時計の裏付けがあるぶん、ジャスティンミラノの覇権は揺るがないように見えるが、どうだろう。

 天国の藤岡康太騎手と一緒に、ジャスティンミラノが主役となったクラシック戦線を楽しみたい。

文=島田明宏

photograph by JIJI PRESS