一流アスリートの親はどう“天才”を育てたのか――NumberWeb特集『アスリート親子論』では、さまざまな競技で活躍するアスリートの原点に迫った記事を配信中。本稿では、全日本プロレスの“暴走専務”こと諏訪魔(すわま)(47歳)の父としての顔を、Jリーガーになった息子・諏訪間幸成(こうせい)(筑波大3年/横浜F・マリノス内定)が明かしています〈全2回の前編〉

「お父さんの決めポーズなんです」

 笑みを浮かべてカメラに目線を送るのは、筑波大蹴球部のディフェンダー、諏訪間幸成(3年)だ。186センチ、85キロという恵まれた体躯を生かした守備力は早くから評価され、今年3月に、2026年から横浜F・マリノス加入することが発表された。

 そんな有望株には屈強なDNAが受け継がれている。諏訪間の父は全日本プロレスの専務を務める諏訪魔だ。

「大きな傷を負っても平気な顔で帰ってくる。実家の庭には筋トレ器具がずらりとあって……小さい頃は当たり前だと思っていたのですが、考えてみたら異様ですよね(笑)」

 Jリーガーになる夢を叶えた道のりには、47歳の今も現役レスラーとして活躍する父の背中を追ってきた時間がある。

“人間凶器”と恐れられたお父さん

 諏訪魔こと諏訪間幸平は、若かりし頃にレスリング選手として活躍した。オリンピック出場は叶わなかったが、幸成が1歳になる前の2004年4月に馳浩のスカウトで全日本プロレスに入門し、レスラーに転身。06年1月にヒールターンし、リングネームも現在の「諏訪魔」に改名。悪役レスラーとして名を馳せるようになった。

 188センチ、120キロの肉体は幼稚園や小学校の行事では一際目立った。リングに場所を変えれば凶器を使ってなりふり構わずに相手レスラーに襲いかかる。ド派手な髪色と髪型、暴言の数々、新聞や雑誌を見れば『人間凶器』『暴虐アリゲーター』という異名が並んでいた。無慈悲なくらいに大暴れする父を異質な目で見る友人たちもいたかもしれない。

 しかし、幸成の目からは常に「かっこいいお父さん」であった。

 目の前の相手に全力でぶつかり、勝てばリングの支柱によじ登って、必ず家族を探して雄叫びを上げてくれる。試合に負けた日は、自分よりも悔しがる息子に優しく接してくれるよき父だった。

「お父さんは口にはしなかったのですが、戦う姿を会場やテレビで見る度に『家族のために戦っている』とヒシヒシと感じるんです。友だちは戦隊シリーズやウルトラマンに憧れていたけど、僕にとって憧れは父であり、ずっとヒーローでした」

棚橋弘至を撃破「幸成、持ってみな」

 幸成が5歳になろうとしていた2008年4月、忘れられない思い出がある。父・諏訪魔は全日本プロレスの“春の祭典”と呼ばれる「チャンピオン・カーニバル」の決勝戦で同学年である新日本プロレスの棚橋弘至を必殺技「ラストライド」からの体固めで破った。デビューから最短での優勝だった。

 この試合を幸成は自宅のテレビで家族と観ていた。試合後の表彰式で大きなトロフィーを掲げる父の姿を見て、何度もガッツポーズをした。

「まだかな、まだかな、とお父さんの帰りを待っていました」

 放送が終わってから夢中になって試合を見返した。何度も玄関とガレージを往復していると、父が乗る車の音が聞こえてきた。帰ってきた父はトロフィーをドンと玄関に置き、こう言った。

「幸成、持ってみな」

 トロフィーは自分の身長より大きい。重くて両手で持ち上げようとしてもびくともしない。

「お父さんは笑いながらトロフィーを片手でヒョイと持ち上げ、反対の手で僕を抱き上げたんです。あの景色は今でもはっきりと(記憶に)焼き付いています。いつもの玄関なのに、まるでリングの上に立っているような気分になって、めちゃくちゃ誇らしかったんです」

 トロフィー以上に父が輝いて見えた瞬間だった。

 幸成は小学生になると、幼稚園の頃から習っていたレスリングをやめてサッカーにのめり込んでいった。レスリングでは父譲りの能力を発揮していたが、「(サッカーのほうが)痛くなかったし、みんなでボールを追いかけるのが楽しかった」。それでも父は、地元クラブチームで夢中になってボールを追いかける息子を全力で応援してくれた。

 父の思いを受け取ってか、幸成は当時、こんな思いを抱いていたという。

「タックルを受けて『痛い』と思っても、お父さんはもっと激しい技を受けても立ち上がって戦い続けている。そう思うと、弱音なんて吐いていられなかった」

 父から受け継いだ闘争心に火がついた。低学年の頃は練習に遅刻したり、サボろうと考えたりすることもあったが、高学年になるとそういった甘えは一切なくなり、誰よりも早くグラウンドでボールを蹴るようになった。

「凶器で殴られて、ありえない針数を縫うほどの傷を負って帰ってきても、負けて帰ってきても、お父さんは『次が大事だ』と休むことなくジムに通っていた。その一方で、食事の時は絶対に一緒に食卓にいたし、食後は僕たちの時間を大事にしてくれた。一緒にも寝てくれた。『好きなことを中途半端にやっていたらダメだ』と背中で教えられている気がしたんです」

 幸成は練習が休みの日も公園に行き、一人でボールを蹴り続けた。「みんなが何もしていない時間で差をつけよう」と努力を重ね、見事に横浜F・マリノスジュニアユースのセレクションで合格を勝ち取った。

 ただ、父・諏訪魔はこの頃から故障に泣かされ始める。幸成が父から「プロフェッショナル」の本当の意味を教えられるのは、ここからだった。

(後編に続く)

文=安藤隆人

photograph by Takahito Ando