高校時代は名門・智弁和歌山高で春夏あわせて5度の甲子園出場。その後も早大→明治安田生命と、プロこそ行かなかったものの野球のエリートコースを歩んできた。そんな道端俊輔が、今年から鹿児島城西高校の野球部監督に就任した。社会人野球で活躍後、営業マンとしても適性を見せつつあった30歳は、なぜその決断を下したのだろうか。<NumberWebインタビュー全2回の第2回/前編から読む>

 道端俊輔が正式に鹿児島城西高校の野球部監督として採用されると、2024年が明けたばかりの1月に、選手全員を前にして挨拶をすることになった。

「年明けの必勝祈願前に選手たちの前で紹介されました。あの時は選手の保護者の方もおられましたが、“30歳の新米監督に何ができるねん”って思われていたかもしれません。

 でも僕はアマチュア野球では第一線でやってきた自負がありますし、プロで活躍している同級生ら多くのレベルの高いチームで経験もさせてもらった。それをまず指導に生かせたらと思っています。でも、選手らはもっとイカツい監督が来ると思っていたみたいです。なんでこんな兄ちゃんみたいなのが来たんやって思ったんじゃないですかね(笑)」

 ただ、初対面当時の選手たちの表情は今でもよく記憶している。

「野球に飢えているような雰囲気を感じたんです。不祥事が起きた後だったし、もっとやんちゃな選手が多いのかと思っていたんですけれど、実際は全くそんなことはなくてグラウンドのトイレはきれいに掃除されていたし、スパイクもきれいに並べられていて。なんでこんなチームに不祥事がって思ったんですよ」

監督就任後は、選手1人ひとりと面談も

 練習ではまず選手たちの表情をよく見ることを心掛けた。時には選手に声を掛け、談笑もする。監督就任直後は、当時の1、2年生、計33人全員と1対1で面談をした。

 今は選手らとの対話を大事にし、LINEも駆使している。コミュニケーションはこまめに取り、興国で作っていた選手それぞれの素性を記入した“選手カルテ”も作成している。

「印象だけで選手たちの人間性を決めるのは失礼なので」と、道端監督は選手ひとりひとりの心にも向き合うようにしている。

「やっぱり僕は甲子園に取りつかれている」

 高校野球監督として、ようやくスタートラインに立った。

 社会人時代まで積み上げた経験から見ても、道端の今後の人生には多くの選択肢があったはずだ。偉大な恩師の存在があったとはいえ、なぜ高校野球の指導者を選んだのか。

「やっぱり僕は甲子園に取りつかれていると思うんです。小学校から社会人まで全てで全国大会に出場させてもらって、東京六大学の早慶戦や神宮大会での優勝決定戦も経験しました。ただ、神宮球場や都市対抗でスタンドが満員になった試合を肌で感じても、やっぱり甲子園にはかなわないんです。

 早慶戦は、ひとつの重要な試合でもどこかお祭りのような感じがしてしまって。感覚的に夢の中でプレーしているのは甲子園なんです。甲子園はプレーをするのは一瞬で終わって、後で映像を見てこんなことがあったなって思い出してしまう。それくらい夢のようで……。他の大会ではなかなか味わえない感覚です」

 甲子園で忘れられなかった場面は、試合ではなく開会式のリハーサルだった。1年生の夏。入場行進を待つライト側の外野スタンドとアルプススタンドの間から球場内の光景が目に飛び込んできたその瞬間だ。リハーサルは無観客だが、大きなスタンドがいきなり目の前にそびえ立った光景に「鳥肌が立ったんです」と道端は興奮気味に話す。

「春と夏、甲子園は景色が全然違うんです。5回、甲子園を経験して、最後までその違いに慣れなかったんですよ。甲子園のそういう景色を1人でも多くの学生に見てもらいたいって思うようになりました」

 道端の“野望”はそれ以上でもそれ以下でもないのだという。常勝軍団になること、さらにプロ野球界へ教え子を……という思いは「現時点ではあまり頭にない」そうだ。

「プロ野球選手を輩出したいのではなくて、1人でも多くの球児を甲子園という舞台に立たせてあげることが僕の役目だと思っています。一線級の選手を集めて勝とうというのは、他の監督もできること。プロになれるのかは別として、この辺りの子たちを引き上げて、できれば九州……というより鹿児島の選手たちだけで戦いたいんです。色んな人に『それは……』って言われるんですけれど、高嶋(仁)先生のように地元に愛されるチームを作りたいんです」

「野球でプロ」より「社会で活躍できる」選手を

 むしろ野球でプロになる選手より、“社会で活躍できるような選手”を育てることが一番の目的でもある。

「野球は絶対に辞める時が来ます。そんな時に野球で得た経験をどう今後の人生に置き換えられるか。野球を辞めてからの人生の方が長いので、セカンドキャリアをどう充実させられるか、野球を通して伝えていきたいとも思っているんです。

 自分は運よく5回も甲子園に出場できて日本代表に選ばれて、大きな看板を背負って早稲田に行っても3年までレギュラーになれなかったですからね。社会人になっても、パソコンの使い方が分からなかったところから資格を取るまで……色んなことを経験しました。その頃、野球から学んだことは何かと考えた時、壁にぶち当たった時のアプローチや逆境の時の堪え方とか、役立ったことはありました」

 面談では「本気で甲子園に行きたいんです」と懇願する選手もいたという。そんな選手たちに信頼してもらうために、まずは今年、成果を残したいと意気込む。

「奇跡を起こすためにも智弁和歌山の時のような厳しい練習をします。この間、智弁和歌山当時にやっていたランメニューも選手たちはついてきてくれたんです。実力はそこまでなくても、まずはハートを鍛えていきたいです」

 そして道端はこんなこともボソッと呟く。

「高嶋先生にノックを打ってもらいに来て欲しいんです。そこで気合いも注入してもらって……。高嶋先生のノックを通して、選手らにも何かを感じて欲しいんです」

 古豪、実力校がひしめく鹿児島で、さらなる洗礼が待っているかもしれない。それでも“高嶋魂”を胸に秘め、持ち前の明るさと強い気概を指導に落とし込み、前に進む。

「5度、目にした聖地の景色を、次は選手たちと共に見たい」

 30歳の若き指導者の大きな夢は、今ゆっくりと動き出した。

文=沢井史

photograph by Fumi Sawai