2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。プロ野球部門の第1位は、こちら!(初公開日 2024年4月8日/肩書などはすべて当時)。

2004年、史上最年少の15歳でドラフト指名を受け、日本中の注目を集めた野球少年がいた。ドラフト8巡目で阪神タイガースに入団した辻本賢人だ。2009年の戦力外通告を経て、米球界への挑戦を最後に野球から離れた辻本はいま、何をして過ごしているのか。地元・神戸で旧知の記者のロングインタビューに応えた。(全3回の1回目/#2、#3へ)

「野球をやっていたことを知らない人が9割なので」

 まだ桜がつぼみのまま閉じこもろうとしていた3月中旬、神戸の生田神社の近くにあるカフェで、ある翻訳家と話す機会があった。じっくりと向き合うのは久しぶりだった。あの頃をどのように過ごし、いまをどのように生きているのか……。彼と別れてから、ボイスレコーダーを聞き直した。ふと脳裏をよぎったのは、かつて読んだ本の一節だった。

《人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。》(ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫、大島かおり訳)

 翻訳家の朝は早い。彼とLINEでやり取りする時、メッセージが届くのはいつも午前4時である。海外と業務の打ち合わせをするために早起きするのだという。世の中が寝静まっている夜明け前に動きだすようになってから、ずいぶんの時が経つが、この生活サイクルを気に入っている。

「海外とは早朝から連絡を取り合うんですよね。でも、アメリカには最近、全然行ってないですね。時々、ロンドンに行ったりするくらいです」

 辻本賢人が日本の雑誌や書籍の英訳を始めてから、もう10年以上が経つ。この1月で35歳になった。幼い頃から海外での生活が長かったこともあり、堪能な英語を生かし、時には日本にやってくる外国人のコーディネートも行う。

 すらりとした長身で、長髪をなびかせ、あごひげを蓄えている。彫りが深く、個性的な風貌を見れば、芸術家か、音楽家か、あるいは銀幕の中に収まっていてもおかしくない。

 彼が20年前、日本のプロ野球界において、世間の耳目を一身に集めた野球選手だったとは、誰も気づかないだろう。

「周りにいる仕事の関係者も、僕が野球をやっていたことを知らない人が9割なので」

 そう言って彼はいたずらっぽく笑う。

「嬉しい反面、不安やったり…」ドラフト指名当日の記憶

 辻本には、はっきりとこの日だと言える人生の節目がある。

 2004年11月17日。

 この日行われたプロ野球のドラフト会議で阪神から8巡目指名されたのだ。ニュースを知った日本中が驚いた。なぜなら、辻本はまだ15歳だったからである。ドラフト制が始まった65年以降、史上最年少での指名だという。育成選手制度が始まる前年のことで、朝日新聞や読売新聞には社会面で報じられた。テレビのワイドショーにも取り上げられ、喧騒の日々が始まった。

 辻本はあの日のことをよく憶えている。

「家にいました。普通にリビングで座ってたんちゃいますかね」

 曇天の一日だった。午後3時半。ジャージ姿でソファに腰かけ、自宅のテレビで朗報を見届けると、カメラのフラッシュを浴びた。目の前の出来事を現実とは受け止められず、しばし固まったが、やがて両親と抱き合って喜んだ。記者たちに二重三重に囲まれるなか、「ビックリという気持ちが大きい。本当に僕でいいのかな……」と率直に言い、その場で阪神入りを即答した。

 辻本は当時の心境を振り返る。

「いろんな気持ちが混じっていた気がします。すごく嬉しい反面、不安やったり、怖かったり、いろんな複雑な気持ちがありました。ちょっと混乱していました。いま考えれば15歳ですからね。ただの子どもですから、ありえないことですよね」

「なんで、知らない人とばかり毎日会うんやろう」

 予感はあった。初めて「辻本賢人」の名前が世に出たのは2004年10月末である。「ドラフト隠し玉」として指名される可能性がスポーツ紙にスクープされたのだ。

 ボーイズリーグの兵庫尼崎でエースだったことや中学1年の時にアメリカ留学したことが紹介され、最速142kmの若き右腕投手を複数球団が追っていると伝えていた。

「ワンダーボーイ」と囃された辻本はアメリカのハイスクールを一時休学して帰国し、日本では強豪の高校からも誘われていた。関西だけでなく、関東や九州の強豪校にも呼ばれ、マウンドで投げた。そこでは、いつも見たことがない大人たちが見守っていた。

「親からは、詳しく聞かされていなかったんです。しかも、僕はアメリカでの生活が長かったから、日本語よりも英語の方が得意で、日本の新聞をあまり読めませんでした。だから情報も入らなくて。周りが盛り上がっただけで『結局、指名もなかった』というのもありえると子供心に思っていました。なんで、こんなに知らない人とばかり毎日会うんやろうって。何を信じていいかも分からなかったという状況はよく憶えています。何かのドッキリかなって(笑)」

 辻本は異色の経歴の持ち主である。中学1年の夏に渡米したのは、日本の猛練習から逃げるためでもあった。「野球を辞めたくなって。アメリカに勉強しに行きたいってウソをついたんです」。そのまま中学時代をネブラスカ州で過ごすと、自由な気風が肌に合い、野球の才能が開花した。

 高校はカリフォルニア州のマタデーハイスクールに進学した。頭角を現したのはこの頃だ。1年生ながら、最上級生に交じってプレーしたのは異例で、「あの頃が一番、自信があったと思います」と振り返る。のちにメジャーリーガーになるダニー・エスピノーサ(元ナショナルズなど)が2学年上でチームメートだった。

指名の決め手となった“星野仙一のひとこと”

 知る人ぞ知る逸材を巡っては、ダイエー(現ソフトバンク)がいち早く評価し、熱心に調査を進めていた。遅れて動きだしたのが阪神などの他球団である。辻本は日本の中学、高校では事実上、学んでおらず、高校1年にあたる学年だった。

 野球協約には海外の学校に属する選手に関する規定がなかったため、日本野球機構も動いた。ドラフト直前の実行委員会で諮り、指名が可能だと結論づける念の入れようだった。

 獲得を模索する阪神において大きな後押しになったのが、当時、オーナー付シニアディレクターを務めていた星野仙一である。

「地元の有望な選手は地元の球団で支えるべきだ」。このひとことが球団の総意となり、前例のない指名に繋がった。

岡田彰布は「想像もつかんけど、将来が楽しみや」

 当時、阪神の監督だった岡田彰布も「中学生(を卒業したばかり)でプロに入るなんて想像もつかんけど、将来が楽しみや。140km以上の球を投げるということやし、体も大きい」と期待を口にしていた。一方、まだ発育途上の15歳を指名したことの責任の重さを問う声が球界内外から噴出していたが、球団側は辻本が自立した考えを持っていることを把握し、両親とも話し合いを重ねた末に入団へとこぎつけていた。

 辻本にとってもタテジマのユニフォームには縁があった。父や祖父が阪神ファンだったため、小学生低学年の頃から甲子園で応援した。ライトスタンドでプレーを見守るなか、やがて、ある選手の躍動感あふれる動きに魅せられるようになった。センターを守り、強肩と華麗なダイビングキャッチを披露する。すらりとしたシルエットが映える新庄剛志(現日本ハム監督)だった。

「リストバンドの『赤』を身にまとっていましたよね。視覚的なことって、子どもは結構、憶えているものです。とにかく、あのころから阪神が好きだったんです」

 野球に触れた原点である甲子園で投げられるのか。初心が思わぬ形で現実になるのだ。この上ない喜びだった。目の前には誰も歩んだことがない道がある。辻本は大志を胸に抱き、第一歩を踏み出した。

<続く>

―2024上半期プロ野球部門 BEST5


1位:史上最年少15歳でドラフト指名され阪神へ…“神童”辻本賢人はいま、何をしている?「周りの人は僕が野球をやっていたことを知らない」
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2位:山本由伸とのノーノー達成直後に「浮かれとるやないかい!」激ツッコミも…声優・立花理香が語る夫・若月健矢の「ヤバイわよ!」な愛され秘話
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文=酒井俊作

photograph by Kiichi Matsumoto