2023ー24年の期間内(対象:2023年12月〜2024年4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。高校野球部門の第2位は、こちら!(初公開日 2024年2月9日/肩書などはすべて当時)。

甲子園を恐怖に陥れた「最強の9番打者」は今――。名将・蔦文也監督の厳しい練習を乗り越え、全国制覇を達成した球児を待ち受けていた、“いばらの道”とは……。現在はIT社長として活躍する元池田高校・山口博史さんの波乱万丈の人生を振り返る。Sports Graphic Number1068号(2023年2月16日発売)「ナンバーノンフィクション」に掲載された『池田高校「恐怖の9番打者」がIT社長になるまで』【全2回の後編/前編から読む】

「高校が決まってうれしかったのは、親父と離れて、あの生活から逃れられることだった」

 池田は寮生活だった。朝食、夕食が毎日、用意されている。幼い頃から父が家に帰ってこなかった山口にとって、食事が当たり前にある生活は初めてだった。

 これで存分に野球に打ち込める。しかし、甘かった。淡い期待は、蔦監督から打ち砕かれることになる。

“鉄拳制裁”を耐えた理由

 1年夏の新チームから3番ショートのレギュラーをつかんだが、練習試合でダブルヘッダーをした時だ。1試合目に負けると、相手チームが弁当を食べている間、1時間は走らされる。2試合目も負けると、2、3時間は走らされる。

 寮もレギュラーは10畳の2人部屋。補欠は2段ベッドが二つ入った部屋と格差をつけられていた。しかも、試合で打てなかったりミスしたりすれば、部屋を入れ替えられる。常に競争心をあおられる。そしてあの当時、監督や先輩からの鉄拳制裁は当たり前だった。

「ずっと、いつ辞めようかなと。でも練習がきつくて辞めようとは思わなかった。何が嫌だったのかな……監督があんまり好きじゃなかったのかな(笑)。それに辞めたらあの親父との生活が待っていたから」

 父と蔦監督。それぞれとの生活を天秤にかけ、山口は池田で野球を続けることを選んだ。日に日に蔦監督の恐ろしさを実感する毎日でも、あの暮らしに戻るよりはましだと思えた。

 蔦監督の練習は、常に甲子園を意識するものだった。例えば夏休みになると、対戦相手を変えて3日間連続で練習試合を行う。準々決勝から決勝まで、3日間試合が続く甲子園を想定した練習だった。

 実は、甲子園で早実に大差で勝利できた裏にも、蔦監督の巧みな読みがあったのだと山口は言う。

 早実との準々決勝が始まる前、甲子園は雨が降っていた。試合中止も有り得るような降り方で、開始時間の延長も決まった。1時間ほどが経った時、早実は「試合はない」と踏んで、宿舎に戻ってしまった。一方、過去の経験から「試合はある」と肌感覚で感じ取っていた蔦監督は、メンバーを連れて近くのグラウンドに向かい、練習するよう指示した。

「あの試合前の練習をしたか、しなかったかの差が出たんじゃないかと思う。甲子園を知り尽くしていた蔦先生の用意周到さが、勝利を手繰り寄せたのかもしれない」

 蔦監督との日々は、甲子園優勝という最高の結果で幕を閉じた。しかし、卒業後の山口には、関門海峡を渡った先の世界で、これまで経験したことのない、いばらの道が待ち受けていた。

「あの9番打者だ」“特別扱い”が招いたイジメ

 山口が進んだのは福岡市にある九州産業大だった。1983年のことだった。他の有名大学や社会人チームからも話はあったが、家計が苦しかった山口にとって、学費免除などの条件が一番よかったのが九産大だった。その進路は自分の意思とは関係なく、父に決められたものだった。

 当時、甲子園で優勝した選手が九産大に進学する例は珍しかった。野球部に入部すると、すぐに指導者から気に入られ、夜になると繁華街を連れ回された。「こいつがあの恐怖の9番打者だ」と言って……。

 もちろんそれは、山口が望んでやっていたことではないが、上級生や同級生からは「特別扱い」されていることをねたまれ、いじめられた。

「朝8時から練習が始まると、朝4時からグラウンド整備をさせられる。先に五寸釘をつけた木のトンボで、黒土の球場をかくんです。そうやって整備した後に、シートノックでイレギュラーをして先輩がとれなかったら呼び出されてね……」

 それでも山口は2年間耐え続けた。なかには目をかけ、かわいがってくれる先輩もいたが、高校時代とは違い、とても野球を続けられる環境ではなかった。

 3年になる前、限界を迎えた山口は退部を決意して、父に連絡をした。

「俺、野球を辞めるわ。徳島に帰りたい」

 意を決した山口の訴えに、父の反応は冷ややかだった。

「何を言っているんだ。周りや親戚はみんな、いつお前が試合に出るんだと期待しているんだぞ。帰ってきて何するんだ!」

 その時、心の中で、「プチっ」と何かが切れる音がした。父と山口のベクトルは決定的に、真逆の方向に向いていた。

「俺はプロ野球選手になろうなんて、一度も思ったことがなかった。そもそも、野球で高校や大学に進むという考えもなかった。だから、親父にあんなこと言われて意地になったね。これからは自分で生きるって……」

 それ以来、山口は父との連絡を断った。

 野球部を辞めると、特待生としての扱いもなくなり、大学に通うためには授業料を払わなければいけなくなった。生活費も必要だった。もちろん、父には頼れない。授業がない昼間には警備、夜は飲食店でバイト漬けの日々を送った。

「ずっと野球しかしてこなかったから、辞めてから何をするのか、バイトしながらずっといろいろ考えて。日本っていうのはどんなところなんだろうか、とか……」

 無事に4年間で卒業した後、親戚がいる大阪でしばらくお金を稼ぎ、京都に向かった。そこで着物の染付けの仕事を始めた。

 実際に色付けをして、思った通りに染まっていく着物を見ることは爽快だった。

「手に職を持とうとして始めたんだけどね。朝から昼までそこで働いて、夜は焼肉屋でバイトして……」

 そんな生活も長続きするものではないと分かっていた。

「バイト先で言われるわけですよ。『ここにいつまでもいちゃダメだぞ。お前はもう長すぎる』って」

 自分が本当にやりたいことは何か。一人で暮らす京都で自問自答する中で、いつしか「日本の文化を発信したい」という気持ちが芽生えていた。そのために自分ができることを考えていくと、「システム作り」という答えに行き当たった。

 山口はもともと理系の世界に興味があった。九産大の時は、ロケットを作る先生に関心を寄せていた。そうと決まると、行動は早かった。コンピューターやシステムの本をむさぼり読んだ。システム開発の会社が東京に一極集中していることがわかると、すぐに上京した。就職雑誌を買ってページをめくると、最初に目に飛び込んできた企業へ面接を受けにいった。

「もしかして、あの山口くん?」

 履歴書を見たその会社の面接官は、山口の経歴を見て矢継ぎ早に質問をしてきた。 

「池田高校って、あの徳島の?」
「えっ、野球をやってたの?」

 そう聞かれ、正直に言うかどうか迷ったが「やっていました」と応えると、「もしかして、あの山口くん?」と問いかけられた。

「あっ、はい……」

 面接を終えるとすぐに試験を受けた。感触は良かった。予想通り、結果は見事に合格、システム会社で働くことになった。

 当時の社員数は30人ほど。第二新卒扱いで入社した山口は、すぐさま頭角を現した。金融系のシステム畑を歩き、凄まじいスピードで変化する業界にも食らいついた。

「俺は昭和のガリガリ系だから、覚えるのに時間がかかるんですよ。家にも帰らずに、必死こいてシステムの土台を作っていた」

 試行錯誤しながら新たな道を歩みだした山口に不思議と野球がもたらす「縁」が、いつも手を差し伸べてくれた。

 入社して7年目の1995年。会社が福岡市に支社を設立することになり、その責任者を託された。博多区内にあるビルの一室にオフィスを構えようと、不動産業者に話をしにいくと、「社員50人もいないの。いやあ……」と言って突っぱねられた。再度訪問すると、今度は別の担当者が「池田の山口さんでしょ。決めましょうよ」と言って即決。しかも格安で借りることができた。この担当者は一つ年下の元高校球児。甲子園で活躍する山口のことをテレビで見て知っていたのだという。

 その後、支社の立ち上げに成功して東京へ戻ると、4年目には執行役員になった。システム開発全般を見る立場になり、業績を飛躍的に伸ばしていく。30年弱勤め上げた頃には、入社当初は3億円しかなかった売上が35億円にまで増えていた。

 その頃だった。胸の中でふつふつと燃え上がるものがあった。「自分で新しいことができる会社を立ち上げたい」

 そう思っていた時、池田と早実のOB会が開かれ、あの夏、早実のセンターを守っていた岩田雅之と再会した。

 岩田はプリント基板設計会社の社長になっていた。自然と意気投合した2人は、ひざを突き合わせて話し合い、山口は独立する道を探った。

 山口は数人で独立しようと考えた。ただ、彼らにもそれぞれの家庭があり、ゼロからのスタートとなれば、もちろんリスクも大きい。2年かけて導き出した答えは、岩田の会社に第二事業部を作るという方法だった。

 山口と、彼が連れて来たメンバーはそこで業務を遂行し、独立採算で事業を行う。2018年3月から始動した第二事業部は順調に業績を伸ばした。4年の月日が流れた時に第二事業部を独立させる話が、岩田との間で持ち上がり、双方合意のもと今の「VENE BASE」を立ち上げた。

「俺はついているというか、運がいいと思う。それは何が証明してくれるのかと言えば、今思えば、甲子園で優勝したという運。もし途中で負けていたら、こんなふうに思えていないんじゃないかって」

 これまでの人生をそう振り返る一方で、両親が離婚せず、満足に食べられる恵まれた環境にいたら、もっと別の人生を歩めていたのではないか――と思うこともある。

 ただ、後ろを振り向いても何にもならない。大学2年の時に疎遠となった父の存在が頭の隅にずっと残っていた。妻と相談して、長男が小学2年の時に、東京に呼び寄せて一緒に暮らし始めた。

「知り合いからもこのままだと一生後悔するぞって言われて……。いろいろあったけど、親だからね」

 その後、山口の長男は報徳学園(兵庫)に進み、2013年の春のセンバツで甲子園に出場した。父はもう寝たきりになっていたが、テレビで孫の勇姿を見る表情は、とてもうれしそうだった。自分と長男、二代続けて高校野球の聖地を踏んだ姿を見せられたことが、せめてもの親孝行だったのかもしれない。

忘れられない父との思い出

 山口には、父との忘れられない思い出がある。池田時代、2年の夏の徳島県予選。準々決勝で徳島商と対戦した試合で、何げないショートゴロをさばけず同点エラー、さらには逆転エラーをしてしまった。

「目の前に残っていた走者の靴跡を、今もはっきりと覚えている」

 試合が終わると、迎えにきた父の車に乗った。甲子園を逃した3年の先輩に申し訳ない気持ちと、エラーをした悔しさが重なり、大粒の涙がとめどなく流れ落ちた。

 顔を上げると対戦した徳島商の同級生を乗せた車とすれ違った。

「俺、野球辞めようかな……」

 気づいたらそう声を漏らしていた。すると父の野太い声が返ってきた。

「ヒロシ、辞めたければ辞めればいい」

 あれだけ嫌いだった父。記憶は薄らいでいるが、あの時の言葉が胸を打ったことは今も覚えている。

「野球が嫌いになったのは生まれて初めてのことだった。でも、親父の言葉で吹っ切れたというか、楽になったというか……。あそこで辞めていたら、甲子園の優勝もなかった。本当に辞めなくてよかった」

 プレーヤーとしての道は大学で断念したが、常に野球は身近な存在だった。2007年から2022年まで少年硬式野球の指導にボランティアで携わった。あの荒木大輔が在籍した調布リトルシニアだ。教え子には、日本ハムの清宮幸太郎もいる。

「細かく教えることは一切しなかった。選手には、常に自分で考えて気づいてほしいと思っていたから」

 常に自分で考えて行動する――。その信念は、蔦監督から口酸っぱく言われていた

「自分で考えて野球をしろ」という言葉と同じだった。打撃ゲージの横に座って子どもたちを指導していた自分の姿は、蔦監督そっくりだと周囲に言われていたという。

「蔦先生と話したのは、怒られる時だけだった。恐れ多い人でしたけど、自分の中に知らぬ間に、蔦先生の考え方や野球が染みついているんだなと」

 山口が立ち上げた会社は、まだ創業して1年もたっていないが、昨年度の売上は5億円で黒字決算と好スタートを切った。事業内容は幅広く、金融関係のシステムから、プロ野球の横浜DeNAベイスターズのチケット販売など、自らの知見を生かしたスポーツビジネスまで手掛けている。

「人生どうなるか、誰にもわからない。ならば蔦イズムじゃないけど、自分で考えて行動しないと。会社は調子がいいけど、そういう時こそ謙虚さを忘れずにいないとね」

 最後に今後の目標を尋ねると、山口は目を輝かせてこう締めくくった。

「これから、社員の考えたことがどんどんできる環境を作ってやりたい。俺もフルスイングしてチャレンジしていきますよ」

 あの夏、甲子園を沸かせた「恐怖の9番打者」が奏でた快音は、40年以上の時が流れ、新たな舞台に立った今でも豪快に響き渡っている。

(全2回・完)

【初出:Sports Graphic Number1068号(2023年2月16日発売)『池田高校「恐怖の9番打者」がIT社長になるまで』】

文=田中耕

photograph by Yuki Suenaga