「井上がスターになるにはアメリカに来て、アメリカ人を倒さなければいけない。海を渡り、アメリカ人を倒してファンに注目してもらわなければならない」

 5月6日に迫ったルイス・ネリ(メキシコ)との東京ドーム決戦を前に、そんな物議を醸すコメントゆえに井上尚弥(大橋)は思わぬ形で論争に巻き込まれることになった。

 4月中旬、元WBC、IBF世界ウェルター級王者で現在は主にコメンテーターとして活動するショーン・ポーター(アメリカ)氏がProBox TVに出演。アメリカのボクシング関係者、ファンの間でも評価を高める一方の井上のキャリアについて持論を展開した。

「ボクシング界の多くの人間は井上をリスペクトしているし、私も(アメリカに来ても)彼が負けるとは思わない。ただ、私のような人間は彼が自身の庭から出てくることを望んでいる」

 これまで多くの外国人選手が米リングで活躍することでスターになり、近年の代表格はマニー・パッキャオ(フィリピン)だろう。比国の怪物は主にラスベガスでアメリカ、メキシコの著名選手を撃破し続けることで業界のトップに君臨した。それと同じように、井上も“ベガスの常連”となるべきなのか。

井上尚弥の反論でヒートアップ

 これに関して4月13日、井上もSNS上でこう反論している。

「今や軽量級の本場はここ日本にある。試合が見たいのなら日本に来ればいい。日本のマーケット以上の物がアメリカにあるのなら喜んで行く。それだけの価値がここ日本にはある」

 この投稿はアメリカ国内でも翻訳された上で大きく取り上げられ、こうして「Does Inoue need to fight in the US?」はボクシング界では最新のホットトピックとなったのだった。

 結論からいうと、ほとんどの関係者が井上の方を支持し、大方のファンからもポーター氏の不躾な発言は批判的に捉えられている。4月16日に公開されたクリス・マニックス(DAZNボクシング中継でコメンテーターを務める)氏のポッドキャスト内で、元ESPN.comのダン・レイフィール記者とマニックス氏が約10分にわたって討論した際の結論が象徴的だった。

「ショーンのことは尊敬しているが、この件には同意できない。アメリカにおいてボクシングは以前ほど人気ではない。井上は日本でも最高級のスターで、東京ドームを完売にできる。ネリ戦のゲート収入はサウル・“カネロ”・アルバレスの試合やジャーボンテイ・デービス対ライアン・ガルシア戦に匹敵するだろう。アメリカで戦ったとして、それらに近いほど稼げるカードは存在しない。すでに統一王者で、パウンド・フォー・パウンドでもトップ2に入る。バンタム、スーパーバンタム級では史上最高の大金を稼いでいる。そんな選手がアメリカに来て、誰と戦えばいいのか?」

新進気鋭のジャーナリスト「時代は変わったんだ」

 レイフィール記者のそんな言葉に、ビデオグラファーとしては史上初めて全米ボクシング記者協会入りを果たした新進気鋭のジャーナリスト、ショーン・ジッテル氏も同意していた。ジッテル記者の言葉は以下の通りだ。

「1000万ドル以上の報酬を稼ぐファンベースが日本にあり、殿堂入りも確実な実績を残し、パウンド・フォー・パウンドのトップ2に入るほどの能力があるなら、井上はもうアメリカに来る必要はない。少々残念なことだが、2024年のボクシングの勢力地図においてアメリカは以前ほど支配的なマーケットではない。時代は変わったんだ」

 かつてボクシングの本場といえば、アメリカという時代が続いた。特にラスベガスのリングで戦うことこそが多くのボクサーの目標であり、実際に井上も2020〜21年に2度、ベガス進出を果たしている。

 ただ、ボクシング人気そのものの停滞と動画配信の浸透が重なった影響から、レイフィール、ジッテル両氏の言葉通り、米リングの影響力には明白な陰りが見られる。昨年以降、ヘビー級ビッグファイトの大半がサウジアラビアに流失しているのはファンならご存じの通り。時を同じくして、もともとアメリカでは人気とはいえない軽量級の重要試合は日本が拠点として確立されている。

 だとすれば、“アメリカ絶対”というポーター氏の理論にはやはり無理がある。より多く稼げる土壌が他国にあるのであれば、そこで戦うのは当然。井上のように母国で絶対的な人気を誇り、報酬にも恵まれ、対戦相手もこぞって日本行きを望んでいるのであれば、現状での米リング登場は理にかなわない。

“ボクシングの顔”になりたいなら

 もちろんあくまで今後に向けた投資の意図も組み入れるのなら、アメリカ再進出に意味がないとは思わない。インパクトが低下傾向だとはいえ、今でも米リングには一定の影響力はあるからだ。

 ポーター氏の言葉をよく聞くと、「井上が“the star(最高級のスター)”になりたいのであれば」という形容をしている。「スターの1人ではなく、パッキャオやフロイド・メイウェザーのような“業界の顔”になりたいなら」という意図がそこにあったのだとすれば、その意見にも一理あるのは事実である。ジッテル記者もその点は理解しており、こうも述べている。

「世界ボクシングの顔となった選手で、アメリカで定期的に戦わなかった選手は思い浮かばない。マニー・パッキャオ、ロベルト・デュラン、レノックス・ルイス、カネロ、フリオ・セサール・チャベス、フェリックス・トリニダードもそれぞれアメリカを拠点にした。本気で世界の顔を目指すのであれば、依然として米リングで戦うことは助けになるのだろう」

 井上が公言している通り、2024年は3戦を予定しているのであれば、個人的にもそのうちの1戦はアメリカで開催してもいいのではないかとも考えていた。

 パンデミックの影響も大きかった2020〜21年と比べ、現在の井上が米興行に出ればより大きな話題になる。対戦相手候補としては、アメリカでは一定の知名度がある元王者ムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン)や、すでに何度か米国内で試合が中継されたIBF指名挑戦者サム・グッドマン(豪州)が挙げられる。このどちらかとの対戦をベガスかカリフォルニアで組み、そこで豪快なKO劇で魅せれば、“モンスター”のブランドはさらに強化されることだろう。

 ただ……繰り返しになるが、これらの試合もアメリカよりも日本で挙行した方がはるかに巨大なイベントになる。井上自身が示唆した通り、アメリカでやった方が大きくなるカードは現状、周辺階級に見当たらない。それを承知で渡米することにも意味はあるとは思うが、“必要”なことではない。その方向にいかなかったとしても理解できるし、当然の選択といえよう。

思い出す先駆者イチローの言葉

「アメリカ中心の考えはやめるべきだ。私もアメリカ人で、井上にここで戦ってほしい。ヘビー級のビッグファイトもサウジアラビアではなくアメリカで行われてほしい。ただ、世界は広く、ボクシングはグローバルなスポーツ。アメリカに巨大なファンベースを持っているかどうかの議論は不必要だ」

 レイフィール記者のそんな言葉はあまりにも正しい。ポーター氏は業界内でも評判のいい好漢であり、コメンテーターとしても人気ではあるが、今回の言葉はやや配慮不足だったように思える。

 しかし、逆に言えば、こんな話が議論となることに現在の井上の評価の高さが透けて見えてくる。個人的には2016年、3000本安打の目前に迫ったMLBのスーパースター、イチローが米メディア相手のインタビューで残したこんな言葉を思い出さずにはいられなかった。

「アメリカに16年いて気づいたことは、ここの人々は自身よりも下と見ている相手は奨励してくれるが、同じレベルか上だと思う相手には攻撃的になる」

 そんな傾向があるのはアメリカ人に限らない。これから先も、何らかの形で、重箱の隅をつつくように井上に対しても批判的な声は出てくるのではないか。評価、知名度が上がるにつれて、厳しい声も増えるのは全盛期のパッキャオも同じだった。それはつまり力量を認められた何よりの証明であり、最強王者の宿命ともいえるのかもしれない。

文=杉浦大介

photograph by Kiichi Matsumoto