日本国内だけでなく、アントニオ猪木は海外でも数々の名勝負を繰り広げた。その中でもファンにとりわけショックを与えたのが、1978年のローラン・ボック戦での敗北である。“シュツットガルトの惨劇”と呼ばれた伝説の一戦の真実を、『G SPIRITS選集 第一巻−昭和・新日本篇』(G SPIRITS BOOK/辰巳出版)からの抜粋でお届けする。(全3回の初回)

 アントニオ猪木の海外での戦いの歴史を紐解くと、1976年10月に韓国へ遠征してパク・ソンナンをセメントで潰した“大邸の惨劇”や同年12月のパキスタンにおける“アクラム・ペールワン腕折り事件”が伝説化されているが、もうひとつ忘れてはならないのが“シュツットガルトの惨劇”と呼ばれた78年11月25日のローラン・ボックとの一騎打ちである。

 地下プロレスのような薄暗い会場で猪木が何度もスープレックスでマットに叩きつけられて判定負けを喫した姿はテレビ朝日『ワールドプロレスリング』を通じて日本全国に流され、当時のファンに大きな衝撃を与えた。

 この78年の欧州遠征は当時、ボック戦、カール・ミルデンバーガーとの異種格闘技戦が放映されただけだが、同行した当時の新日本プロレス営業本部長・新間寿氏の証言を元に“死の強行軍”と呼ばれた『欧州世界選手権シリーズ』の実態を解き明かしてみたい。

◆◆◆

「ぜひ我が国に来て、私の挑戦を受けてほしい」

 西ドイツのプロレスラー兼プロモーター、ローラン・ボックなる人物から猪木に「ぜひ我が国に来て、私の挑戦を受けてほしい」というアプローチがあったのは77年4月のことだった。

 未知の男からの挑戦表明に、新日本プロレスの営業本部長だった新間氏は親しいスポーツ紙の記者へ調査を依頼。その記者から受けた報告は、「ボックはろうあ者で、レスリングに集中できるから物凄く強い」というものだった。

「ちょうどニューネッシー(※77年4月にニュージーランド沖で引き揚げられた首長竜に似た謎の巨大腐乱死体)が話題になっていた頃なんだけど、世の中にはまだまだ知られていない生物がいるんだなというのと同じように、世界には我々が知らない格闘技があって、とてつもない力を持った選手がいるんじゃないかと思ったね。逆にボックとしたら、モハメド・アリと戦った“東洋の神秘”である猪木さんを呼んだらヨーロッパでセンセーショナルなニュースになるということだったんだろうけど」と新間氏は述懐する。

 68年のメキシコ五輪に西ドイツ代表として出場し、グレコローマンで5位に入賞したボックは73年9月にハンブルグでプロデビューしているが、当時は欧州マット界の情報が少なく、日本ではまったく無名のレスラーだった。

アリ戦以降、殺到していた“猪木への挑戦状”

 1年後の78年4月に自費で来日したボックは、猪木に直談判。同年11月に猪木初の欧州遠征が実現することになるが、新間氏は一抹の不安を感じたという。

 76年6月26日のモハメド・アリ戦以降、猪木の許には世界中から挑戦状が殺到したものの、要請に応じて遠征した同年10月の韓国、12月のパキスタンで相次いで“事件”に見舞われたからだ。

「パキスタン遠征のアクラム・ペールワン戦だって、“新間、俺は負けるわけないけど、ちゃんとした試合をさせてくれるんだろうな”と聞かれて、“大丈夫ですよ、社長。向こうもちゃんとしたプロモーターなんですから”と言っていたんだよ。それが試合が始まる5分前になって、“今日はプロレスじゃない。何でも有りの試合だ!”と変わったんだから。それで猪木さんが怒ってさ。気を入れ直して出て行って、ペールワンの腕を折って……」

「あの試合は涙が出たね。終わった後、涙を流して“社長、すみませんでした。こんな試合をしてもらっちゃって”と言ったよ。そうしたら、猪木さんが“何がこんな試合だ、バカ野郎。俺は折ってきたんだ!”って。奥さん(倍賞美津子)がいる前で、7万人の大観衆の前で国民的な英雄の腕を折ったんだから。その前の韓国でのパク・ソンナン戦も同じような状況だったしね。だから、この時のヨーロッパ遠征も私の中では不安でしたよ」

猪木の決断「いつでも、どこでも、誰とでもできる」

 だが、最終的にヨーロッパ行きを決断したのは猪木自身だった。そこには猪木なりの格闘ロマンがあった。

「ある時、“新間、もし許されることなら、俺はインド辺りの聖地と言われる場所を徒歩で訪ね歩きたい”と言い出したの。“1920年代の世界王者スタニスラウス・ズビスコがインドに行った時にグレート・ガマと戦って、サンドレスリングでたった何秒かで押さえ込まれたという話がある。真実なのか伝説なのかわからないけれども、そういう噂が立つ場所には必ず違う格闘技があるんだ。日本でも嘉納(治五郎)先生が柔道を創り上げる前に、いろいろな柔術があったはずだ。そういうものを探し続けるのが俺の夢なんだよ”と熱っぽく語っていたこともあったしね。猪木さんはいつでも、どこでも、誰とでも、どういうことでもできるという精神でやっていたから、ヨーロッパに行く時も来るなら来いという感じだった。自分がナンバーワンだと思っているから、“俺は何でもいいよ”って」

 そして、新間氏は自らマネージャーとして同行すると同時に、藤原喜明をポリスマンとして連れて行く。

「やっぱり藤原はボディガードとして頼りにしてた。藤原の実力は半端じゃないし、だからパキスタンにも連れて行ったし。あの時のパキスタンには小沢(正志=キラー・カーン)と永源(遙)ちゃんも一緒に行ったけど、それぞれに役割があったのよ。永源ちゃんなんてコンクリートの上に投げられたって、へっちゃらだからね。まあ、藤原は別格としても、他は誰でも良かったんだよ、あの頃の新日本プロレスは」

 蓋を開けてみれば、この欧州遠征は 22日間にわたってヨーロッパ各国をサーキットするという大規模なものだった。

地元の英雄vs“キラー猪木”という構図

 猪木は現地で「アリと戦ったアジアン・カラテ・キャッチ・キラー」として紹介され、完全に主役扱い。大会ポスターの中央には、猪木の写真と後に代名詞となる「キラー・イノキ」の文字が大きく記されていた。

 このツアーは日本では『欧州世界選手権シリーズ』と呼ばれ、11月25日にシュツットガルトで行われた猪木vsボック戦は“決勝戦”としてテレビで報じられたが、事実は違うようである。

「あれは世界一を決めるトーナメントとかリーグ戦じゃなくて、本当は“キラー猪木”と一緒にサーキットするという普通のツアーだった。ボックとしては“猪木がワールド・マーシャルアーツ・チャンピオンと称しているなら、俺はヨーロッパで無敵のチャンピオンだ”ということで各国を回ってから、そのクライマックスとしてシュツットガルトで猪木さんと一騎打ちをやるという考えだったのよ。まあ、地元の英雄と対戦する“キラー猪木”だから、向こうではヒール扱いだよね」

「興行的には客が入らない大会もあったよ。地方では300人とか500人とかもあったから。でも、シュツットガルトは超満員だった。大会の前日に何万人も集まるビール祭りというのがあったんだけどね、次の日の夜に猪木vsボック戦が行われるということで、2人が壇上で紹介されたんだよ。祭りの中のデモンストレーションのひとつとしてプロレスの試合が行われたんだけど、このシュツットガルトとフランクフルトは大入りだったんでボックは結構、儲かったんじゃないかな」

 西ドイツでは一定の期間、一ヵ所に定着して興行を行うスタイルが主流だが、この『欧州世界選手権シリーズ』のような各会場を回る形のツアーは画期的だったようだ。推測するに観客動員が振るわなかった理由のひとつは、この慣れない興行形式にあったと思われる。

「右肩から骨みたいなのが飛び出していて…」

 ここで“シュツットガルトの惨劇”以外の試合にも触れておこう。11月6日に現地入りした猪木は、地元の報道陣に向けてちょっとしたデモンストレーションを行った。

「リング上で猪木さんが素足でジャンプしているのを見て、向こうのマスコミの人間が驚いたんだよね。猪木さんは足の指全部を内側に曲げた形でジャンプしているわけ。それを見て向こうの人たちは、“やっぱり東洋の人間は神秘さを持ってる……”って。後で聞いたら、“そんなことあったかなあ”と本人は忘れていたけどね(笑)。そういう演出をして人を惹きつけるのがアントニオ猪木なんだよ」

 猪木の戦績は22戦して12勝1敗7分(エキシビションマッチを含む)。初戦で対戦経験のあるウィリエム・ルスカをバックドロップで制して幸先のいいスタートを切ったが、2日目のボック戦ではフロント・スープレックスで右肩から硬いリングに叩きつけられ、早くも負傷した。

「受け身が取れない投げ方をされたわけ。猪木さんが“新間、やっちゃったよ”って。見ると右肩から骨みたいなのが飛び出していたから、電気マッサージを当てて、毎晩寝る前に治療していたんだ。試合前にも30分ぐらいそのマッサージをして、温湿布をしないと肩が動かなかったの。そういうのを隠しながら猪木さんは、ずっと戦っていたんだよ」

《第2回に続く》

文=小佐野景浩

photograph by 東京スポーツ新聞社