パリ五輪に向けて各競技の日本代表が続々と決定するなか、陸上競技の代表選考争いもいよいよ激しさを増してきた。

 その中で注目を浴びつつあるのが、男子110mハードル、400mハードルの2種目でパリ五輪出場を狙う慶應義塾大学4年の豊田兼だ。

 都内屈指の進学校、桐朋中・桐朋高出身。身長195cmと恵まれた体躯を持ち、そのルックスや立ち姿はモデルのようだ。

「大学1年で(慶大競走部に)入部した時点で、自分が4年になる年にオリンピックがあると知っていたので、その時から狙っていました」

 父はフランス人。父の母国で開催される五輪は早い時期から目標だった。

 とはいえ高校までは、全国大会で入賞した実績はあるものの、その世代で突出した選手というわけではなかった。慶大に進学してその才能が一気に開花したと言っていい。

400mハードルでは日本歴代5位の記録

 2種目で五輪を狙う豊田だが、現実的に五輪が見えているのが400mハードルだ。

 昨年10月のヨギボーチャレンジで、世界陸連(WA)が定めるパリ五輪の参加標準記録(48秒70)をクリアする48秒47をマーク。さらに、今年5月19日のセイコーゴールデングランプリでは、日本歴代5位となる48秒36の自己記録を打ち立てて優勝を飾った。

 豊田は5月に入ってから静岡国際、関東インカレ、そして、セイコーGGPと試合が続いており、昨年痛めた左脚のハムストリングスに不安を抱えた状態でレースに挑んでいた。それだけに「まさか自己ベストが出るなんて」とレース後には驚きを口にしていた。

 ちなみに、この記録は2023年のブダペスト世界選手権ではギリギリ決勝に進出できる記録に相当する。

「前半を抑えめで入ったら、思いのほか後半走れました。前半突っ込むと自分はまだ後半に耐えられる足がないので、前半を余力を持って入らないといけない」

 前半を抑えたのは脚に不安を抱えていたことも一因だが、静岡国際では前半から突っ込むレースをして、代表の座を争う筒江海斗(スポーツテクノ和広)に先着を許し、48秒96で2位だった。その反省もあって、きっちりと修正してみせた。

 ハードルを跳んだ後の着地の瞬間を基にした各ハードル間のタイムをタッチダウンタイムというが、静岡国際の時は1〜2台目を「3.6秒台で入った」が、今回は「3.7秒台で、力感も少し抑えた」という。

 わずか0.1秒の修正に過ぎないが、この微妙な匙加減でトータルのタイムが大きく変わってくるのだから、何とも奥深い競技だ。

 ちなみに、2001年に為末大さんが47秒89の日本記録を樹立した時は、日本陸連科学委員会の分析によると3.50秒だった。前半型の為末さんは、それほど最初から突っ込んでいたというわけだ。

 また、10台あるハードル間の歩数は、為末さんは5台目まで13歩で、6台目と7台目が14歩、8台目以降は15歩だった。豊田の場合、8台目までを13歩、残り2台を15歩でいく。前半が同じ13歩でも、170cmの為末さんと195cmの豊田とでは出力が大きく異なるだろう。

ハードルなしの400mでも「代表級の走力」

 豊田は大学対校の関東インカレでは、400mハードルを回避して、フラットレースの400mに出場し、準決勝で自己ベストを大幅に更新する45秒57の好記録をマークしている。つまりは走力自体が格段にアップしている現れだ。五輪でメダルも狙える男子4×400mリレーのメンバーに選出される可能性もある。

 今季の豊田は、400mハードルでは初戦の東京六大学対校で49秒38(1位)、静岡国際で48秒96(2位)、そして、セイコーGGPで48秒36(1位)と、1戦ごとに記録を大幅に伸ばしてきている。この伸び幅で、さらに脚の状態が万全なら、日本人3人目の47秒台も、と夢想してしまうが……。代表選考がかかった日本選手権では、どんな記録が出るか楽しみだ。

 とはいえ、この種目の日本代表争いは大混戦。

 日本代表3枠に対して、豊田の他、ブダペスト世界選手権で準決勝に進んだ黒川和樹(住友電工)と筒江もパリ五輪の参加標準記録を突破している。

 さらに、2018年のユースオリンピックで世界一になった出口晴翔(ゼンリン)が社会人になり好調で48秒台に突入。昨年のブダペスト世界選手権に出場した児玉悠作(ノジマ)や東京五輪代表の山内大夢(東邦銀行)といった実績のある選手も控えており、好調の豊田といえども、五輪出場が保証されているわけではない。日本選手権では見る者にとっても息もつけないほどの熱戦が繰り広げられそうだ。

複数種目での五輪代表を目指す豊田

 また、冒頭にも書いた通り豊田は110mハードルでも五輪出場を目指している。

 高校までは110mハードルと400mハードルの2種目をこなす選手も一定数いるが、シニアで両立させる選手はなかなかいない。同じハードル種目とはいえ、距離だけでなくハードルの高さも異なり、高いレベルで両立させるのは並大抵のことではない。

 豊田は、この種目では五輪の参加標準記録(13秒27)に届いていないが、日本歴代6位となる13秒29をマークしている。

 そのタイムを出したのが昨年8月に中国・成都で開催されたワールドユニバーシティゲームズ。この大会で豊田は見事に大学生世界一に輝いた。日本人が五輪や世界選手権を含め世界大会で110mハードルの金メダルを獲得するのは史上初めてのことだった。

 そんな国際舞台の実績があっても、五輪出場は決して簡単なことではない。

 実は、110mハードルは400mハードル以上に代表選考が熾烈だ。ブダペスト世界選手権5位の泉谷駿介(住友電工)がすでに内定し、残りは2枠しかない。その上、日本記録タイ(13秒04)をもつ村竹ラシッド(JAL)と野本周成(愛媛陸協)が参加標準記録を突破している。

 さらに、世界大会常連の高山峻野(ゼンリン)も控える。強豪ひしめくこの種目で豊田が五輪に出場するには、日本選手権で泉谷を除いて2位以内に入り、参加標準記録をも破らなければならないのだ(※参加標準記録の有効期限は6月30日までで、日本選手権が事実上のラストチャンスとなる)。

「今年2月、3月はトッパー(110mH)に絞ってやってきた」と言うように、3月には2レースを走った。

 沖縄で臨んだ初戦(3月10日)は13秒89だったが、その約2週間後に記録を狙いにいったオーストラリア・シドニーのレースでは転倒して失格に終わっている。

「海外独特の木のハードルに慣れていなかったのと、タイムを狙いに行って攻めすぎた結果、転んでしまいました」

 それだけに、今季の豊田の110mハードルは未知数の部分が大きい。それでも、400mハードルの好調ぶりを見れば、いやが上にも、110mハードルでも期待したくなる。

 日本選手権は6月27日に400mハードルの予選、28日に決勝。29日に110mハードルの予選と準決勝、最終日の30日に決勝がある。4日間、走り回る豊田の挑戦に注目したい。

文=和田悟志

photograph by Satoshi Wada