競技麻雀の新たな魅力を開拓し、多くのファンを獲得しているMリーグ。だが、選手視点で見れば、“Mリーガーであり続けること”は決して容易ではない。4人×9チームの限られた選手枠をめぐって、これまで11人がさまざまな事情から最高峰の舞台を離れている。

2019年から2023年まで赤坂ドリブンズに所属していた丸山奏子プロ(30歳/最高位戦日本プロ麻雀協会)も、契約満了によってMリーグを去った選手のひとりだ。将来を嘱望された麻雀プロは、なぜわずか4年で“戦力外通告”を受けたのか。インタビューでMリーガー時代の苦悩に迫った。《NumberWebインタビュー/全2回の1回目》

「あのときは『Mリーグで麻雀を打つ』ということの重さを、いい意味でまだよくわかっていなかったんです」

 オーラスの倍満ツモによる大逆転トップ――2019年10月29日、新人Mリーガーとして鮮烈なデビューを飾った丸山奏子は、当時をそう振り返った。「5年経っても、いまだにあの試合のことを聞かれますね」とこぼした笑顔には、面映ゆい気持ちだけでなく、悔恨のニュアンスもわずかに含まれているような気がした。

会社を辞めてMリーガーに「迷いはなかったです」

――丸山プロは2018年に最高位戦日本プロ麻雀協会に入会。翌19年7月に赤坂ドリブンズからドラフト指名を受け、Mリーガーとなりました。当時はまだ会社員として働かれていた時期ですが、「麻雀一本で生きていく」ということに不安はなかったのでしょうか。

丸山 仕事をしていて楽しいと感じる瞬間もたくさんありましたけど、それ以上に麻雀が大好きで、プロとして大きな舞台に立つことは目標だったので。自分が大好きな麻雀という競技に打ち込めると考えたら、会社をやめることに迷いはなかったです。麻雀を仕事にできることよりも、普通なら対局できないようなトッププロの中に身を置けることが何より嬉しかったですね。

――ちなみに、ご両親はどんな反応でしたか?

丸山 我が家はわりと放任主義というか、「社会人になったら自分で全部やってね」という感じの家庭だったんです。なので、相談というよりも報告だけでした。「ドラフト指名されたよ。会社はやめることになるけど大丈夫、暮らしていけるから」と、何も言わせないくらいの勢いで(笑)。もし1年でクビになっても数カ月は食べていけるくらいの貯金はしていましたし、「こんなチャンスは二度とない。これを逃すのはアホだ!」と。

――Mリーガーは最低年俸が400万円に設定されていますが、会社員時代と比べると収入にはどれくらいの変化があったのでしょうか。

丸山 収入的にはあまり変わらなかった気がします。たぶん、最初は微増くらいだったんじゃないかな? Mリーガーとして認知度が上がったことで仕事をいただくことが増えたり報酬のベースがアップしたりして、トータルの年収は少しずつ上がっていきました。

劇的デビュー戦のあとに生まれた「怖い」という感情

――注目を集めたMリーグデビュー戦。丸山プロはラス目で迎えたオーラスに跳満を見逃して倍満ツモを決め、劇的な大逆転トップを獲得しています。あの試合で「丸山奏子」の名前が一気に知れ渡りました。

丸山 もちろん勝てたのは嬉しかったんですけど、正直、自分の選択がよかったのかどうかわかりませんし、今なら見逃さずに跳満でアガっていたかもしれない。でも、結果だけで「丸山はすごい」みたいになっちゃったじゃないですか。自分が思っている以上に「丸山奏子」が過大評価されてしまったかもしれない……というのが、徐々に怖くなってきたんですよね。

――うまくいきすぎたのが後々プレッシャーになってくる、というような……。

丸山 まさにそうです(笑)。

――当時の丸山プロは麻雀プロになって2年目、ドラフト指名時点ではまだ25歳でした。そんな選手がMリーグという最高峰の舞台に上がるわけで、注目を集めると同時に色眼鏡で見られることも多かったと思います。

丸山 正直、デビューする前の時点でメンタル的にはいっぱいいっぱいでした。そのころの私はプレッシャーに弱くて、特に「人に迷惑をかけているんじゃないか」みたいな感情になると本当にダメで……。指名してくださった企業の期待を背負って、ファンの方に応援してもらって、やっぱり結果が必要だと思うんですけど、当時プロ2年目の私はまだ「なんとなく麻雀が楽しい」というくらいの温度感でしかなかった。ハイレベルな技術論をされても、理解する能力、雀力がない。「どこから手をつけていいかわからない」という不安と、いろんなプレッシャーの合わせ技で、ズーンと沈んでいた感じでした。

1年目、ベッドから起き上がれなくなった日も

――園田賢プロ、村上淳プロ、鈴木たろうプロと麻雀界屈指の実力派を揃えた赤坂ドリブンズのチームカラーや、丸山プロが入団される前年度にMリーグ初代王者になっていたという点も、ハードルを上げる原因になっていたのかもしれませんね。

丸山 自分が想像していたのと、いざ入ってみたときのギャップは正直ありました。麻雀について教えてもらうにしても、そもそも基本が全然できていない。何をどう質問していいのかもわからない、という状態で……。Mリーガーって本当に限られた枠で、普通は実力や実績を認められた人が選ばれると思うんですけど、私の場合は“異例の抜擢”という立場だったのもあって、「できない」や「どうしよう」を同じ麻雀プロの前で出しちゃいけないと思っていたんです。結局、どこにも吐き出すところがなくて、自分ひとりで抱え込んでしまった。

――特に苦しかった時期というのは……。

丸山 1年目の12月に、ベッドから起き上がれなくなった日がありました。とにかく気が滅入って手が動かない、麻雀のことを考えたくない。それでまた自己嫌悪に陥って(笑)。でもなんとか「このままじゃダメだ」って自分を奮い立たせる。メンタル的には、そういうアップダウンを繰り返しながら過ごしていた感じです。

「いまでも思い出すと涙が出てくるくらい、本当につらかった」

――2年目以降、赤坂ドリブンズでは村上プロが教育係となり、さらにMリーグの解説も務めている河野直也プロ(最高位戦日本プロ麻雀協会)の指導で基本を見つめ直したと伺いました。3年目には、レギュラーシーズンをプラスの成績で終えています。一方で、シーズンごとの出場試合数は10、10、12、12と伸び悩みました。ドラフト指名時の「育成枠」という言葉がひとり歩きしていた印象もありますが、そのあたりはいかがでしょうか。

丸山 徐々に成長はできていたと思います。ただ、自分が出た試合でも、「他の人が出ていたらもうちょっといい結果で終わったんじゃないか」というのをずっと引きずりながらやっていたので……。結果が出ても出なくても、「新しい学びがあったからOK」と思えていたらよかったんですけど、「まだまだこんなにわかっていないんだ。ほんとダメだな」みたいなネガティブ思考が拭えなくて。それで負のループにハマっていった気がします。

――Mリーグは視聴者数も多く、注目度の高さゆえに辛辣な批判や誹謗中傷を浴びることも少なくなかったと思います。丸山プロの場合、「なぜ丸山を出さないのか?」「なぜ丸山を出すのか?」という双方の声があり、なお苦しかったのではと思うのですが……。

丸山 もう食らってましたよ、しっかりと。まったく気にしない選手もいると思うんですけど、私はいろんな言葉をもろに受け止めてしまった(笑)。「チームに勝ってほしいから実績がある人を使ってほしい」という声も、「応援している人に出てほしい」という声も、どちらも「そりゃそうだよね」と思うんですよね。どこに対しても「本当にごめんなさい」という気持ちでいっぱいになって……。いまでも思い出すと涙が出てくるくらい、本当につらかったです。

赤坂ドリブンズ“契約終了”を告げられた日

――4年目のシーズンを終えて越山剛監督から契約終了を告げられたとき、「ふわっと安堵の気持ちが湧いた」とご著書で明かしていました。あらためて、その日のことを振り返っていただけますか。

丸山 監督との一対一の面談の席で、「単刀直入にお伝えします。契約終了とさせてもらいます」と告げられました。そもそもドリブンズは2年連続レギュラーシーズンで敗退して、規定でメンバーを最低1名入れ替えなければいけない(結果的に丸山プロと村上プロの2名が契約終了)ので、「クビになるなら私だろうな」という予感はずっと心の中にありました。私自身、いい結果を出せていませんでしたし、チームメイトの3人のことをすごく尊敬していたので、もし仮に自分が残って誰かが去る形になったら、たぶん耐えられなかった。だからホッとしたというのはあると思います。

――事実上のクビを宣告され、まとまった収入と「Mリーガー」という肩書きを同時に失うことになりました。生活面での不安はありましたか。<インタビュー後編に続く>

(撮影=杉山拓也)

文=曹宇鉉

photograph by Takuya Sugiyama