PRESIDENT Online 掲載

日本の領海警備や海難救助は海上保安庁が担っている。『知られざる海上保安庁 安全保障最前線』(ワニブックス)を書いた元海上保安庁長官の奥島高弘さんは「それ以外に、中国の海洋進出が進んだことで増えた仕事もある」という。どんな取り組みを行っているのか。ライターの梶原麻衣子さんが聞いた――。(前編/全2回)

■在任中は常に臨戦態勢だった

――現場の海上保安官から海上保安庁長官に就任された「生え抜き」として勤められ、退任から1年半が過ぎました。

【奥島】在任中は常に臨戦態勢でしたから、辞めてしばらくの間も災害だ、事故だと聞くと「すわ一大事」と腰を浮かせていたのですが、1年半たってようやく通常の感覚が戻ってきた感じがします。

海上保安庁では情報は下から上に徐々に上がってくるものだけではなく、メールや通知システムなどで長官まで一気通貫、夜中でもほぼリアルタイムでアラートが入ります。緊張感を強いられる日々でしたから、退官直後はヘトヘトでした。

ただ、年明けすぐに能登半島沖地震が発生し、救援物資を輸送するはずだった海保の飛行機がジャンボ機と接触して海上保安官5名が亡くなる痛ましい事故がありました。

あの時には、いわば脳の暴走状態というんでしょうか、「あそこに説明に行かなければ」「資料はあったよな」などと、頭が勝手に考えてしまう状態になりました。一生懸命、「考えなくていいんだ」と自分を納得させようとしましたが、なかなか収まらず、一方で現役の時と違って情報が入ってこないことがストレスで、2日間、全く寝られませんでした。一挙に現役に引き戻されましたね。

■尖閣方面に行く大型船の船長はほぼ性格まで把握

――現場からの「生え抜き長官」は奥島さんで4代続きました。現場にはどのような影響がありましたか。

【奥島】初めて海上保安官から長官になった佐藤雄二さんが就任したのが2013年。そのときすでに私は現場の海ではなく霞が関勤務でした。そのため厳密な意味で「現場」に与えた影響はわかりませんが、しかし霞が関にいた立場としても、現場を知る、同じ土俵で仕事をしてきた人がトップにいるという安心や信頼を感じていたのは確かです。

「同じ船に乗っていた人が、トップに就任している」という高揚感みたいなものもあったでしょうし、士気が上がったことは間違いありません。

――霞が関にいる職員も、みんな海の上のことは知っていて、ご著書の『知られざる海上保安庁 安全保障最前線』(ワニブックス)では「船長の性格まで把握したうえで配置や指示を決めている」と書かれていました。

【奥島】海保は大きな組織ではありませんが、だからこそマイクロマネジメントが可能になった面があります。

尖閣方面に行く大型船は数十隻で、船長も数十人いる。名前を聞けば、だいたい性格までわかります。全寮制の海上保安大学校で文字通り「同じ釜の飯」を食った仲だったり、現場でも様々な機会に顔を合わせたりしますからね。

それぞれの個性はよくわかっているので、そうした性格も踏まえて船の運用を考えていました。