「魂のピアニスト」と世界中で賞賛されるフジコ・ヘミングさんが4月21日未明、92歳で亡くなったことが、5月2日、公式サイトで発表されました。

フジコさんがかつて住んだことのある岡山で、2023年6月、コンサートが開かれました。いまも心に響くフジコさんの演奏とインタビューを振り返ります。

その他の記事は下記のリンク、または関連リンクからご覧になれます。
・【追悼】フジコ・ヘミングさん 92歳で死去「人を傷つけることはどんな嫌な奴でも黙って言わない」かつて疎開した岡山で紡いだ言葉【魂のピアニスト】
・【追悼】フジコ・ヘミングさん「今日は完璧に弾けたからすごく嬉しい」2023年、終演後にほほ笑んだ【魂のピアニスト】
・【追悼】フジコ・ヘミングさん「私は太い指、これがいい」いつまでも心に響く“ラ・カンパネラ”【魂のピアニスト】

(2023年の記事を再掲)

波乱に満ちた半生がその音に…フジコ・ヘミングの「ラ・カンパネラ」

フジコ・ヘミングさんは、ピアニストの母・大月投網子とスウェーデン人の画家で建築家の父の間に、ベルリンで生まれました。幼い頃、一家で東京に移り住み、母の手ほどきでピアノを始めました。

岡山に疎開したのは、戦火が激しくなった1945年4月。疎開先の小学校のピアノで毎日練習していたといいます。

フジコさんは、戦後ヨーロッパに渡り、才能を認められながらもコンサートの直前に聴力を失うという悲劇に見舞われ、不遇の時を過ごしました。その後、左耳の聴力が回復し、ピアニストとして再び日本で活動していた1999年、波乱に満ちた半生がテレビドキュメンタリーで描かれ、脚光を浴びました。

戦争の悲しみや、聴力を失ったことによる失意などを乗り越え歩んできたフジコさんの演奏は、聴く人の心を揺さぶります。

RSK

♪フジコ・ヘミングさんの演奏「ラ・カンパネラ/リスト」

(フジコ・ヘミングさん)
「怖いですよ。ステージに立って弾かなくてはいけないというのは。危なっかしいと思ったら、神様に『助けて』ってお祈りするの。80%くらい助けてくださるけど全部ではない。時々知らん顔しているときもある」

RSK

(RSK 小林章子記者)
「きょうはどんなお気持ちで演奏されましたか」

(フジコ・ヘミングさん)
「間違って演奏が止まったりしないようにと思って。うまくいきました」

ー衣裳も素敵です。(【画像】をご参照ください)
(フジコ・ヘミングさん)
「これは大正時代の生地。柄が大正時代の雰囲気でしょう」

RSK

ー鮮やかですね。

(フジコさん)
「こういう赤が好きです。若い時は『日の丸』の赤が好きだったけど、いまは嫌い。こういう、くすんだ赤が好き」

ースカーレットというのでしょうか。レースもアンティークですか?

(フジコさん)
「これは20年以上も前から着ていて、古いですよ。何度洗っても、自分で手洗いするのだけど、洗えば洗うほどピカピカしてくる」

ー真っ白ですね。

(フジコさん)
「母のネックレスもあるんだけどこれは違う。これは私の恋人がくれた」

疎開先の岡山で出会った初恋の人「どんな人生を送ったのか…」

ー恋愛すると、音楽にもきっといい影響があるんでしょうね

(フジコさん)
「『恋をしたことがない』という日本人に、ストックホルムで会ったことがあるけど、『恋ってどんなんだろう』っていうから『かわいそうな人』って思った」

「私の場合は悪趣味で、恋愛相手はみんな嘘つきの女たらしばかりだった。『なんでこんなのばかり好きになるのか』って。嘘つきで酷い奴のほうが魅力あるのよね。人が好い男性は、どうも退屈で。誰かを好きになる時の感情って素晴らしいじゃない。お酒よりももっとおいしい。うっとりしちゃう」

RSK

(フジコさん)
「私、戦争中に岡山に疎開したの。日本の兵隊がたくさん小学校に駐屯していた。その中の一人が私の初恋の人なのよ。私よりずっと年上だったからもう亡くなったらしいですけど。ぷっくりした日本人よ。笑ったことは一度もなかったわ。いつも憂鬱そうな悲しい顔をしていた」

「一回だけ彼がしゃべった言葉は、『きょうはピアノを弾かないんですか』って私に。廊下でお会いしたときに。私は一言も彼にしゃべらなかった。それで終わっちゃったんです。終戦になって行ってしまったから。だから、その人がどういう人生を送ったのか、それだけでも知りたいと思って」

取材班が控室をでるとき、笑顔で見送ってフジコさん。筆者がそのとき着ていたブラウスを「素敵ね。真珠の色だわ」と褒めてくださいました。

世界中に素晴らしい音楽を届けてくれたフジコさんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。