米国の心理学者マズロー(1908〜70年)は、人間の欲求には5段階があるとする「マズローの欲求5段階説」で知られる。食欲や睡眠欲といった第1段階の生理的欲求から始まり、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求と続き、最後の段階は「自己実現の欲求」だ◆自己実現とは自分らしさを表現しながら夢や目標をかなえることと思う。なかなか難しいが、この人は自己実現の欲求を満たしたのではないだろうか。先月末に亡くなった星野富弘さんである。中学校の体育教師だった20代前半、部活動の指導中の事故で手足の自由を失った。それでも口に筆をくわえて文字や絵を練習。草花の絵に詩を添える作風を確立した◆前を向くことは言うほど簡単ではない。星野さんも生きる張り合いをなくし何日か食べなかったことがあるが、それでも腹は減るし、脈も動いている。どんなに絶望しようとも、いのちは一生懸命生きようとする、と述懐していた◆いのちを生かすとは欲しいものを手に入れるのではなく、人のために何かすること。身体機能をなくしても、自分を表現する手段はある。過去は変えられないが、その捉え方は変えられる◆享年78。手足の自由を失ってから半世紀を生き抜いた。星野さんの命がみなぎるような優しい言葉と温かい絵に「自己実現」の軌跡と奇跡を思う。(義)