光秀の居城と攻めた城

【居城】坂本城(滋賀県大津市)
明智光秀の居城で西側は比叡山、東側は琵琶湖に挟まれた水城。安土城の試作とも考えられている、日本で一番最初に築かれた近世城郭です。

坂本城は1582年、山崎の戦い後に天守もろとも秀吉に焼かれてしまい、“幻の城”となってしまいました。現在は坂本城址公園となっており、石碑や光秀の石像が置かれています。琵琶湖の湖底に石垣が残っており、渇水時には当時の石垣が出現することもあるのだとか。

【支城】福知山城(京都府福知山市)
戦国時代は「横山城」と呼ばれ、塩見信房が城主をつとめていましたが、1579年に丹波攻めを行っていた光秀が攻め落とします。西国平定の拠点として、石垣の城と城下町を築き、明智の「智」の字を用いて「福智山」と名付けられたと伝わっています。

福知山城の最大の特徴は、野面積の石にまじって、寺院で使われる五輪塔や宝篋印塔、墓石や石臼などの「転用石」が石材として使われているということ。石材不足のために「転用石」が用いられたと考えられます。

【攻めた城】八上城(兵庫県丹波篠山市)
丹波攻めの際、光秀を裏切った波多野秀治の居城。丹波を代表する巨大な城郭で、水場施設の「朝路池」の守りなど、他の山城には見られないほど堅固なつくりとなっています。光秀は約半年かけて兵粮攻めを行い陥落させ、秀治は磔刑に処されました。  

八上城の戦いでは、信長が波多野一族を皆殺しにしたため、人質にしていた母が殺されてしまったという悲しい逸話がありますが、近年の研究でこの説は否定されています。