謎多き光秀の意外な素顔
そこからの光秀の人生はトントン拍子。天正3年(1575)には信長に丹波攻めを命じられます。1度目の出陣では八上城(兵庫県丹波篠山市)城主の波多野秀治の裏切りにあい、撤退を余儀なくされますが、拠点となる亀山城(京都府亀岡市)を築いて2年後に再び出陣。八上城を兵糧攻めで陥落させると、破竹の勢いで丹後・丹波の城を陥落させて、その平定に成功しました。丹波平定の際の要となった亀山城・福知山城(京都府福知山市)・黒井城(兵庫県丹波市)・周山城(京都府京都市)は、どの城も光秀が「石垣の城」として築城・改修しています。光秀は信長が生み出した近世城郭の「石垣の城」を築くことで、丹波の人々に信長の権力を知らしめたのです。

ついに国持ち大名となった光秀ですが、天正10年(1582)に本能寺の変を起こします。あまりに有名な事件なのでここでは経緯を繰り返しませんが、この件で日本史上最大の裏切者というレッテルを貼られてしまいました。

そんな光秀ですが、流浪の身から成り上がった才人であることは間違いありません。彼が優れていたのは、「報告・連絡」という最も基本的なことでした。光秀が定めた「明智光秀家中軍法」では、戦場での勝手な判断を慎み、命令遵守・連絡を最優先することを記しています。また、光秀の戦況報告書は詳細で、信長にも絶賛されたことがありました。そういったマメな性格が、戦国一のブラック大名である信長の下で出世できた秘訣だったのかもしれません。

また光秀は非常に愛妻家だった事でも知られています。複数の妻がいることがあたり前だった戦国時代に、光秀の妻は煕子(ひろこ)一人だけだったのだとか。夫婦仲も非常に良かったそうで、結婚前に天然痘にかかり、顔に痕が残ってしまった煕子を、光秀は気にせずに迎えたという美談も残っています。「天下の謀反人」は意外にも一途なイケメン(イケてるメンタル)の持ち主だったようですね。