昨年10月7日のハマスによる奇襲攻撃でイスラエル側は死者1200人以上という近年まれにみる犠牲者を出した。攻撃したハマスにとっても想像以上の犠牲だったといわれるこの作戦は、なぜここまで成功したのか。中東最強の軍隊を持つハイテク産業国イスラエルの安全神話が崩れた理由を、書籍『なぜガザは戦場になるのか』より一部抜粋して紹介する。

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ハマスへの恐怖と憎悪


一般のイスラエル市民は、ハマスなどのパレスチナの武装組織に対して、どのような意識を持っているのだろうか。もちろん、2023年10月の事件が起きる前から〝テロリスト”を送り込んでくるハマスなどに対する恐怖と憎悪には強いものがあった。1996年や第二次インティファーダの際にイスラエル国内で起きた連続自爆攻撃の記憶は生々しい。平和な町で、カフェでくつろいでいると突然爆破される。バスに乗っているだけで炎に包まれる。考えるだけでも恐怖である。

長年“テロ”(パレスチナ側から見れば抵抗運動であるが)と戦ってきたイスラエル国民には、奇妙な迷信のようなものがあった。それは一度テロがあった場所は安全だとの認識である。テロのあった場所には、免疫ができるとでも思うかのような認識である。ハマスは、そんな迷信をも爆破した。同じ路線のバスを二度攻撃するなどして、イスラエル国内にはテロに免疫のある場所がないことを示した。

また、2000年から始まった第二次インティファーダの際も、イスラエル国内でハマスなどによる自爆攻撃が相次いだ。当時、ガザはすでに周囲が高い塀などで囲まれており、検問所を通らなければ容易に出入りができなかった。しかし、ヨルダン川西岸地区からはイスラエルに出入りが容易だったため、イスラエルで自爆する者は西岸からやってきた。

2002年、イスラエル政府はヨルダン川西岸地区に「テロ対策用防護フェンス」、国際的には「分離壁」として知られる高い壁の建設を開始した。すでに説明した通り、表面上はテロ対策用だが、実質は占領地の一部を併合する形で占領地に建設されている。「テロリストの越境対策」は名目にすぎないのだが、イスラエル国民は分離壁の建設を支持した。

ハマスなどの抵抗勢力による自爆攻撃の恐怖が、それほど強かったからである。占領という根本的な問題は、何ら解決されていない。しかしながら、分離壁を建設して人々の出入りを厳しく制限したことにより、確かに“テロ”は減少した。“テロ対策”は市民から評価された。

2007年にハマスがガザを実効支配して以降は、ガザからのロケット弾による攻撃が散発的に行われるようになったが、アイアン・ドームなどの防空システムによりイスラエル国内でそれほど大きな被害は出なかった。ガザで地上戦が行われる際に、数十名のイスラエル兵が犠牲になったものの、民間人の被害はごく限られたものであった。



しかし2023年10月のハマスによる攻撃は、これまでとはまったく異なる衝撃を与えた。同年12月時点で少なくとも1200名が犠牲となり、240名が人質となった。特に兵士だけでなく、子どもや高齢者も含め多くの民間人が対象となったことに、イスラエル国民は相当な心理的ダメージを受けた。イスラエル国民が子どもの頃から教え込まれてきた「ホロコースト」の集団としての記憶が呼び起こされた。

ハマスはイスラエルの殲滅を謳った憲章をもっていた。現在は、前にも見たように憲章の文言は、やや穏健になっている。しかし、イスラエル国民は、そうした微妙な変化を評価していない。そしてハマスはユダヤ人を皆殺しにしようとしているという恐怖を抱いている。

奇襲を許したことで、有権者の安全保障面での信頼をも失ったネタニヤフは、「怪物(=ハマス)を根絶やしにする」と息巻いて軍事力を行使している。国民の間では、ガザの民間人が犠牲になってもハマスを殲滅しろという声が強い。

しかしその“怪物”はどこから生まれたのか、なぜイスラエルを攻撃し続けるのかという議論が、イスラエル国内では深まっていない。イスラエル人の中には、ガザになぜパレスチナ人が住んでいるかも知らない人がいる。もちろん、多くの人はガザで何が起きているかも知らなかった。中東最強の軍隊と、世界最先端のテクノロジーを持ち、世界で最も「テロ対策」が進んだ国で、なぜ世界で最も“テロ”が起きるのか。その理由と向き合うことなしには、イスラエル国民の本当の安全はないのではないか。


肥大化するイスラエル軍


ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)という異常な記憶を共有する人々が造り上げたイスラエルは、周囲のアラブ諸国との戦争の中で生まれ、戦争の中で成長してきた。常に敵意に満ちた隣人に囲まれて生きてきた。そのため、安全保障という面では特別に敏感である。

その防衛の重責を担っているのが、女性をも含む国民皆兵の国防軍である。18歳になると男性には3年、女性には2年の徴兵義務があり、その後は51歳まで予備役に編入される。その間は年に1カ月の訓練を課せられている。

なお、イスラエル国民の2割を占めるアラブ系の市民は徴兵を免除されている。と言うよりは、ユダヤ人がパレスチナ人を信用していないため銃を持たせないというのが、正直なところであろう。ただアラブ人でもドルーズと呼ばれる宗派に属する人々は、徴兵されている。この少数派のイスラエルにおける人口は15万人ほどである。

日本の外務省のホームページに掲載されているイスラエルに関する資料では、2023年段階で正規軍の兵力は約17万である。これは、日本の陸上自衛隊の隊員実数14万(定員15万)を上回る。人口1000万強のイスラエルが、1億2000万の人口の日本の陸上自衛隊を上回るレベルの兵員数を維持している。

そして、緊急時には46万の予備役が召集される。合わせて65万である。日本の自衛隊の陸海空を合わせた数が24万である。日本の人口の12分の1であるイスラエルが、日本の2.5倍以上の兵力を維持するのは極めて大変なことである。

今回のガザ紛争では、正規軍に加えて予備役30万以上を召集し、合計で50万を動員している。人口が少なく、予備役の動員によってようやく十分な戦闘能力が出てくるというイスラエル軍の体質からすると、当然のことながら先制攻撃による短期決戦がその基本戦略になる。

イスラエルは、一度動員を掛けると、長期にわたって臨戦体制を維持するのは困難である。イスラエルの好調な経済を支えているのはハイテク産業だが、そのハイテク産業で働く若者たちが長らく徴兵されれば、経済には重い負担である。

10月7日に始まったガザをめぐる紛争から、本稿執筆時点ですでに3カ月が経っている。イスラエル政府としては、できるだけ短い期間で、できるだけの打撃をハマスに加えたい。できれば壊滅させたい。そのために民間人に犠牲を強いる荒っぽい攻撃も許容されるという立場をとっている。



今回はハマスによる奇襲攻撃を受けたが、こうしたイスラエル軍の体質を考慮すれば、敵に攻撃を受ける前に動員を完了しておくのが望ましい、となる。そして、できれば先制攻撃を行ってでも短期間で戦争を終了させたい。であれば、いやが上にも先制攻撃への誘惑は高まらざるを得ない。イスラエルを威嚇するのは先制攻撃を呼び掛けるようなものである。エジプトがイスラエルを挑発し、イスラエルが先制攻撃を行った1967年の戦争がその一番の例である。

今回の事態で、戦線拡大が懸念されている理由の一つには、ヒズボラがイスラエルに戦端を開く可能性である。あるいは逆に戦争は不可避だと考えたイスラエルの方が先制攻撃に訴える可能性である。10月7日の奇襲攻撃を受けた後に、イスラエルの上層部ではハマスに対して反撃するばかりでなく、ヒズボラに対しても先制攻撃をかけようという議論も存在したようだ。アメリカの説得もあり、このヒズボラに対する攻撃をイスラエルは、とりあえずは断念したようだが。この点については、前にも述べた通りである。


ハイテク産業の国


イスラエル社会は、もともと社会主義的な発想を抱いた人たちが作った国であった。欧州で農地の保有が困難だったユダヤ人は、農地で農業を行うことに憧れ、共同農場であるキブツをつくった。与党は建国から30年にわたりずっと労働党だった。建国からしばらく、イスラエル経済は農業を中心に回っていた。

しかし、状況は様変わりしている。いまではハイテク産業を中心とした中東で最も豊かな国である。次々と生まれるハイテクベンチャー企業の隆盛により、中東のシリコンバレーと呼ばれている。国民所得の平均は5万ドルを超え、日本の4万ドルを上回る。

豊かになったイスラエルでは、国民の多くは手間のかかる農業への興味を失っている。キブツで働いているのは、20年ほど前までは西岸やガザなどから来たパレスチナ人などだった。しかし、イスラエルはパレスチナ人によるテロをおそれ西岸に壁をつくり、ガザを封鎖して人の移動を厳しく制限するようになった。

代わりに東南アジアからの出稼ぎ労働者が目立つようになった。エルサレムでは、フィリピンやタイから出稼ぎに来ている人を多く見かける。タイ人は3万人ほどが農業労働者などとしてイスラエルで働いている。今回、ハマスの人質に多くのタイ人が含まれていたのはそのためである。

イスラエルがハイテク国家になった背景には、まず、ユダヤ人の勉強好きがある。古来からユダヤ人に対する悪口は多いが、少なくとも勉強をしないという批判は聞いたことがない。そして、この勉強好きの国に、高度の教育を受けた多数の人々が押し寄せた。旧ソ連からである。冷戦が終わる前後に現在のロシアやウクライナから100万人規模のユダヤ移民を受け入れた。大半が、高度な教育を受けていた。それがイスラエルの貴重な財産となった。

現在、日本の経済界が「高度人材」などという不器用な日本語で言及している層の人々である。イスラエルの総人口が1000万程度だから、人口の1割の高度人材を吸収した計算になる。ハイテク産業を浮上させる大きな力となった。

三つ目に軍や諜報機関の役割を指摘したい。イスラエルには、技術で国を守るというコンセプトがある。軍でハイテクに才のありそうな人材を見出し育てる制度がある。徴兵された若者の中でITの才能のある者は、サイバー部隊に配置される。中でも8200部隊は国際的にも超精鋭として知られる。そうした部隊で訓練を受け経験を積んだ後に、除隊した若者たちがベンチャーを立ち上げる例が多い。

そして、そこで生まれた先端のテクノロジーが、軍事と民生で使われる。両者の境界は必ずしも明確ではない。生体認証やセンサー、ドローンなどでは、イスラエル発の技術が多い。こうした技術がガザの監視にも使われている。日本の自衛隊や経済界の中にも、こうした優れた技術を活用するためにイスラエルともっと協力すべきだとの声が出ている。



ネタニヤフの評判は悪いが、それでも政界に長らく君臨してきたのは、このような経済の発展がある。ネタニヤフは政府の規制を撤廃し、弱肉強食の市場原理主義、つまりネオリベラリズムを推し進めた。一方では、ハイテク産業が牽引して国のGDPが上がり、世界から投資が集まった。他方で、貧富の格差は拡大した。特にコロナ禍や度重なる紛争により、観光業は壊滅的な打撃を受けた。2021年のデータでは、国民の約3割が経済的苦境にあるとされている。

またハイテク産業の興隆は、国民に富と自信を与えると同時に、テクノロジー依存症ともいえる心理を蔓延させた。テクノロジーに守られているから安全だとの幻想を生んだ。それを10月7日のハマスの奇襲が打ち砕いた。

写真/shutterstock


#1 ハマスによる攻撃の背景
#2 スマホが伝えるガザの悲劇 ジョブスのルーツは中東


なぜガザは戦場になるのか - イスラエルとパレスチナ 攻防の裏側(ワニブックス)

高橋和夫

2024/2/8

1089円

256ページ

ISBN: 978-4847067006

激化するイスラエルのガザ地区への攻撃。
発端となったハマスからの攻撃は、なぜ10月7日だったのか――

長年中東研究を行ってきた著者が、これまでの歴史と最新情報から、
こうした事態に陥った原因を解説します。

・そもそもハマスとは何者なのか
・主要メディアではほぼ紹介されないパレスチナの「本当の地図」
・ハマスを育ててきた国はイランなのか、イスラエルなのか
・イスラエル建国の歴史
・反イスラエルでも一枚岩にならないイスラム教国家
・アメリカが解決のカギを握り続けている理由
・ガザの状況を中国、ロシアはどう見ているのか
・本当は日本だからこそできること

など、日本人にはなかなか理解しづらい中東情勢について
正しい知識を得るためには必読の一冊です。