UWFを信奉する「蒼い瞳のケンシロウ」ジョシュ・バーネット
UWFを信奉する「蒼い瞳のケンシロウ」ジョシュ・バーネット

【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第29回 
立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。

■ビデオ店で出会った「UWFインターナショナル」

「いったいこれは何?」

1998年、二十代になったばかりのジョシュ・バーネットは、地元シアトルの日本人向けビデオ店にあったメイド・イン・ジャパンの市販ビデオを視聴して衝撃を受けた。

掌底での打ち合い、ダイナミックなスープレックス、そしてサブミッション......。そこにはアメリカンプロレスで見慣れたオーバーアクションもなければ、アンチプロレス派から突っ込まれがちなロープワークもなかった。「Incredible!(信じられない)」

パッケージには「UWFインターナショナル」と記され、スーパー・ベイダーvs田村潔司の写真や、当時まだひとりの若手にすぎなかった桜庭和志の名前もダブルバウト(タッグマッチ)に記されていた。その中で、ジョシュはベイダーvs田村とは別のブロックで組まれたトーナメント準決勝に心を奪われた。

「高田延彦さんとゲーリー・オブライトが闘った一戦です」

調べてみると、それは優勝賞金1億円を用意し、他の主要5団体のエース(橋本真也、三沢光晴、天龍源一郎、前田日明、船木誠勝)にも参加を呼びかけた『'94プロレスリングワールド・トーナメント』だった。その発表会見では銀行から借りたという、うず高く積まれた現金が記者団に披露され、その写真は「夢と1億円」というコピーとともに『週刊プロレス』の表紙を飾り話題となった。

他団体の選手たちは参戦を拒否したが、準決勝でUWFインターのエース高田は、スープレックスが得意だったレスリング出身のオブライトとの3度目の戦いを実現させていた。

UWFインターの試合映像を見て、ジョシュはUFCとは別物であると判断したが、「これは自分が追求していかなければいけないもの」と肌で感じたという。

「最強」を標榜したUWFインターのエース、高田延彦(左)
「最強」を標榜したUWFインターのエース、高田延彦(左)

ジョシュは今でも「UWF好き」を公言してはばからないが、そのルーツはUWFインターにあったのだ。それ以前からアメリカのプロレスはよく見ており、当時アメリカマットで活躍していた日本人レスラーが使っていたテクニックは今でも鮮明に覚えている。

「WWF(現WWE)に出ていたパット・タナカ(日系の大物レスラー、デューク・ケオムカの子息)と佐藤昭雄のオリエント・エクスプレスによって、僕は初めて開脚式のパワーボムを目にした。そしてジャンピング・ボム・エンジェルス(立野記代&山崎五紀=日本でのタッグチーム名はJBエンジェルス)によって、初めてジャーマンスープレックスを見たんだよ」

"三つ子の魂百まで"。少年時代に見たプロレスの影響力は絶大で、PRIDEで闘ったアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラには三田英津子の十八番だったデスバレーボムを、パンクラスで実現した近藤有己戦では見事なジャーマンスープレックスを決めている。プロレスのテクニックが総合格闘技でも通用することをジョシュは証明してみせたのだ。

オリエント・エクスプレスやジャンピング・ボム・エンジェルスに感化された後には、グレート・ムタや獣神サンダー・ライガーのアメリカ遠征試合も見た。しかしUWFインターからは、従来のプロレスとは全く異質なものを感じた。

近藤有己を見事なジャーマンスープレックスで投げる
近藤有己を見事なジャーマンスープレックスで投げる

それからジョシュのUWFを巡る旅が始まった。のちにUWFインターナショナルの論文をネット上に発表するなど、その熱量は世界一と表現してもオーバーではあるまい。すでにこの世からUWFの冠のついた団体は消滅していたが、インターネットの時代になりつつあったことも、UWFについての情報収集の助けになった。

UWFインターと出会う1年前、97年にジョシュは19歳で総合格闘家としてデビューしている。最初に師事したマット・ヒュームは、新生UWFから分裂したプロフェッショナルレスリング藤原組から独立したパンクラスの黎明期にレギュラー参戦していた。このこともジョシュとUWFとの距離を縮めた。

「ヒュームは船木誠勝さんや鈴木みのるさんの教えを受けていたからね」

■「打倒グレイシー」を果たしたプロレスラー

その後ジョシュは、93年6月に修斗初の日米国際戦で勝利を収めているエリック・パーソンにも教えを乞う。エリックはUSA修斗を設立した中村頼永氏の弟子だったので、初代タイガーマスクこと佐山聡氏が設立した修斗との結びつきもできた。

「佐山さんはカール・ゴッチの教えも受けていたので、その流れも汲(く)むことができた」

日本の総合格闘技の源流はオープンフィンガーグローブを独自に考案し、リアルファイトを貫いた修斗といわれている。その一方で、新日本プロレスから派生したUWFは分裂を繰り返すうちに、過激なプロレスから総合格闘技の流れに合流していく。95年から2000年にかけ、山本宣久、高田、船木といったUWF系のプロレスラーがヒクソン・グレイシーの牙城に次々に挑んだことは時代の必然だったろう。

日本の総合格闘技の創成期、合言葉は「打倒グレイシー」だった。それほどまでに94年にスタートした『バーリ・トゥード・ジャパン・オープン』で2年連続優勝を果たしたヒクソンと、彼の登場とともに日本で初披露されたバーリ・トゥード(ポルトガル語で「何でもあり」)のインパクトは強かった。

そうした中、日本人選手として初めて打倒グレイシーを果たしたのは生粋の総合格闘家ではなく、元UWFインターの桜庭和志だった。99年11月、当時「IQファイター」と称され、オリジナリティに溢れたムーブと闘争本能を持ち合わせていた桜庭は、グレイシーの最強幻想に惑わされることなく、ヒクソンの実弟であるホイラー・グレイシーをレフェリーストップで破った。 

この少し前までUWFインターの前座を賑わせていた男が、総合格闘技の第一線で通用するだけの実力を蓄えることができたのは、道場で実力者として知られていた安生洋二や金原弘光らとしのぎを削っていたからだろう。ジョシュの史観では佐山氏も旧UWFにいた時期があったので、日本の総合格闘技の歴史はUWFから、もっといえばUWFを作る源となった新日本プロレスの道場から始まったと捉(とら)えている。

1976年6月26日に開催されたアントニオ猪木とモハメド・アリの異種格闘技戦が、40年後の2016年に総合格闘技のルーツとして再評価されたことも、ジョシュにとっては自身の総合格闘技史観を深める追い風になった。それまでUWFと新日本プロレスはヒクソン登場以前の歴史の中に埋もれていた感が強かったからだ。

ジョシュは声を大にして訴える。

「本質はUWFにあります」

ジョシュが生まれる1年前に開催された猪木vsアリからも多くの刺激を受けたという。

「レフェリーを務めたジン・ラーベルさんのこともよく知っています。(新日本プロレスで猪木の右腕だった)新間寿さんからこの一戦について直接話を聞く機会もありました。友人のジャーナリスト、ジョシュ・グロスが著した『アリ対猪木――アメリカから見た世界格闘史の特異点』(亜紀書房)からも多くのことを学びました」

アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラらと並び「PRIDEヘビー級四天王」と称された
アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラらと並び「PRIDEヘビー級四天王」と称された

ジョシュが主宰するプロレスイベント「ブラッドスポーツ 武士道」のホームページには以下のような説明がある。

「かつて日本にはカール・ゴッチに始まり、ビル・ロビンソン、 アントニオ猪木が受け継いだ、強さを追求するプロレスのスタイルがあった。『Bloodsport』は3人の先人に師事し、その血を継ぐジョシュ・バーネットが 2019年にアメリカで旗揚げしたプロレス団体。ロープを外したコーナーポストのみという、従来とは違う形式のリングを採用し、 勝敗はピンフォールなし・ノックアウトもしくはギブアップのみで決まる。まさに強さを追求したレスラーだけが戦うことを許される、 世界一過酷で生々しいプロレスが繰り広げられる舞台だ」

アメリカ同様、日本でもプロレスと格闘技が大別されるようになった一方、プロレスの中では多様化が進んでいる。大昔はタブーとされていた「男vs女」も令和のマット界では当たり前に組まれるようになった。そうした中、ジョシュは強さを追い求めるプロレスラーたちの居場所を作ろうとしているのか。

(つづく)

文/布施鋼治 写真/長尾 迪