あの人は今〜「オッツェ」インタビュー後編
フランク・オルデネビッツ(ドイツ/元ジェフユナイテッド市原)

◆あの人は今「オッツェ」前編>>1994年Jリーグ得点王に会いにブレーメンまで行ってきた
◆あの人は今「オッツェ」中編>>1年半で帰国したのは、家庭の事情だけじゃなかった

 "オッツェ"に出会ったのは、ブレーメンのセカンドチームの試合取材に訪れた時だった。

 小さなスタンドで「コンニチハ」と、日本語で話しかけられたのがきっかけだった。ブレーメンでスカウトとして働くオッツェは、日本とスカンジナビアを担当しており、現在ブレーメンU-23に所属している佐藤恵允(さとう・けいん/FW/22歳)や、オランダ1部フォレンダムにレンタル移籍中の長田澪(ながた・みお/GK/20歳)の獲得に関わっている。

「名前は言えないけれど、昨年の夏にはトップチームで日本人選手を獲得する可能性もあったんですよ。(移籍金が)高すぎて獲れなかったけど、そのうち誰かを獲得できるかもしれない」と、日本人選手が候補に上がっていたことを明かす。

◆あの人は今「オッツェ」今昔フォトギャラリー>>


現在はブレーメンのスカウトを担当するオッツェ photo by Minegishi Shinji

 現在ブレーメンには8人のスカウト担当がおり、オッツェはそのうちのひとりだという。スカウトの手法は時代とともに変わり、現在では映像とデータを分析するところから始まる。

「以前であれば、飛行機に乗ってどこかの国に行って選手を見る、という動き方でしたけど、今はビデオやデータを見て、目的を定めてから飛行機に乗るんです」

 作業は効率化されたが、「簡単になったか?」という問いの答えは「ノー」だそうだ。

「簡単にはなってないですね。僕は外に出て行くのが好きでした。直接スタジアムに行ったほうが代理人などいろんな人に会えますから。僕はそっちのスタンスのほうがよかったです。今は毎日4時間も5時間も椅子に座ってデータをチェックしているんで......そばに上司がいるから、大声では言えないですけど(笑)」

 長田獲得の際には、オッツェが日本まで飛び、試合などを観戦して代理人に接触したという。当時の長田はまだ13歳で、川崎フロンターレの下部組織に所属していた。

 きっかけは、2017年9月にJFAエリートプログラムU-13が参加したU-13マドリードカップで、同じく出場していたブレーメンU-13のアカデミーコーチからのレポートだった。当初は「長田澪」という名前ではなく、「ミオ・バックハウス」というドイツにルーツを持つ選手として認識していた。

【オッツェはすぐ長田澪の獲得に動いた】

 2018年にブレーメンのユースチームに加入した長田は、順調に日々成長を遂げている。今シーズンは経験を積むため、オランダリーグ「エールディビジ」に所属するフォレンダムにレンタル移籍した。

 今季開幕前、長田には「第3GKとしてトップチームに昇格する」という選択肢もあった。だが、第3GKとなるとブンデスリーガでベンチ入りする可能性は低く、トップチームで練習しても試合はセカンドチームで臨むことになる。ブレーメンのセカンドチームは今季5部リーグを戦っており、さすがにレベルが下がる。そんな理由もあり、長田はフォレンダムへの移籍を決断した。


Jリーグでの経験が今の仕事にも役立っているという photo by Getty Images

 フォレンダムは現在、エールディビジで降格圏と苦しい立場にいる。だが、そんな厳しい状況から経験を積んでブレーメンに戻ってきてくれればと、オッツェは願っている。

「ミオは今、やるべきことがいっぱいのチームにいる。何回もネットからボールを拾わなければいけないだろう。でも、負けてばかりのチームで『負ける』という貴重な経験を積めているんです」

 来季、長田のブレーメン復帰は決まっているという。

「今シーズンが終わったら、ブレーメンに帰ってくることは決まっています。少なくとも2番手のキーパーにはなるし、もしかしたら1番手になるかもしれません。どうなるかは彼次第。何も特別なことが起きなければ、2番手か1番手として来季を迎えることになるはずです」

 長田は現在、年齢を重ねるごとにドイツの各世代別代表にも選出されている。しかし昨年12月には、日本代表の合宿にも顔を出した。

 実は、オッツェが日本代表サイドにアドバイスをしたのだという。

「影山(雅永JFAユース育成ダイレクター/オッツェとはジェフ時代の同僚)に『いいキーパーがいるから見てみろ』って教えたことがあるんですよ。最終的にドイツか日本のどっちの代表を選ぶかは、ミオが決めること。いつかは決めなきゃいけないですよね」

 ただ、ブレーメンのスタッフとしては思うところもある。

「ブレーメンの人間としては、ドイツを選んでくれたら代表戦のたびに長い距離を移動しなくて済むからありがたい、という思いはありますよ。でも、まずは両方の代表から求められるようにならないといけないですね」

【佐藤恵允がブレーメンで得られるメリット】

 一方、今季開幕前の昨年7月にブレーメンの一員となった佐藤に関しても、獲得のきっかけはU-21世代のスペイン遠征だった。

 だが、獲得時と状況が変わったことがある。ブレーメンのセカンドチームが4部から5部に降格したことで、佐藤を育成するプランにも修正が必要となったという。ただ、幸いにも来季は4部昇格がほぼ決まっているので、状況が好転する可能性は高い。


新たな日本人選手の獲得に精力的なオッツェ photo by Minegishi Shinji

「これまでもトップで練習をすることはありましたけれど、すべてはこれから。来季は勝負のシーズンになるはずです」

 期待を込めてそう話した。

 昨今の傾向として、Jリーグのクラブに入団せずにいきなりドイツなどの欧州のクラブに加入し、その組織の育成チームからスタートをきるケースが増えている。長田も佐藤も加入した年齢は違えども、Jクラブを経ていないという点では同じだ。

「FIFAのルールで、欧州のセカンドチームに加入できる国の選手は限られています。もちろん欧州内の選手であれば問題ありませんが、欧州以外の国だと加入に制限があります。

 たとえばアフリカ人選手ならば、イタリアやスペインのパスポートを持っていればOKだけど、持っていなければセカンドチームには加入できない。だから、アフリカ人選手がドイツのクラブに入ろうと思ったら、トップチームと契約するしか選択肢がないんです。

 しかし、日本人選手はセカンドチームから始めることができる。これは我々にとってもアドバンテージです。たとえば佐藤の場合だと、基本的にはセカンドチームで練習も試合もして、時にはトップチームに参加することも可能になる」

 その一方、海外クラブのスカウトが育成世代の日本人選手のプレー映像を見る機会は少ないという。

「Jリーグだと18歳の選手はほとんどプレーしてないですよね。だから、映像をチェックしてドイツに連れてくることが難しい。また、日本の育成年代のプレー映像は、スカウトが国際的によく使うシステムに入っていないので、基本的には見られないんです。そういう状況も、我々が日本の育成年代の選手を獲得しづらい理由のひとつです」

 現状では、代理人や元チームメイトの情報などに頼るしかないという。日本の育成年代の獲得において能動的に動くことは、今はなかなか難しいそうだ。

【オッツェが獲得してみたかった日本人選手は?】

 また、ブレーメンのスカウトとして19年間働いているオッツェは、最近のドイツ代表の惨状を嘆いている。

「1990年代は、ドイツが日本に負けるなんて考えられなかった。でも、僕が思うにドイツは今、向上心や野心のある選手があまりいないように感じます。サッカー以外のことに気を取られすぎです。

 昔と違って、現代社会は多くのゲームやコンピューターにあふれており、手もとには携帯電話もある。バイエルンやライプツィヒの選手は16歳〜17歳でもかなりの金額をもらっているので、それに満足してしまう。そういうこともドイツ代表の弱体化につながっていると思います」

 日本には、かつて自分たちにあって今はないものがあるという。

「ユース代表の試合を見に行くと、勝つか負けるかはともかく、日本人選手は一生懸命に走るし、ピッチでファイトしているんですよね。今のドイツには、それがないです。今年の欧州選手権もドイツ開催ですけど、勝つのは簡単ではないだろうなと思います」

 余談にはなるが、ベテランスカウトとして獲得してみたかった日本人選手を聞いてみると、最近の選手の名前を挙げた。

「遠藤航ですね。サッカー理解力が高く、インテリジェンスがある。彼は決してツヴァイカンプフ(1対1/遠藤はブンデスリーガで2シーズン連続1位の勝率を誇った)だけではないんです。知的だからこそ、今のキャリアがある。リバプールでの活躍は必然だったと思いますよ」

 取材の最後に、オッツェに「日本のみなさんに、ひと言を」とお願いした。

「僕のことをまだ知っているファンはいるのかな? 僕は当時、とてもすばらしい時間を日本で過ごさせてもらいました。日本のサッカーはとても発展したと思っています。そしてこの発展は、まだ終わらないと思っています」

<了>

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【profile】
フランク・オルデネビッツ(オッツェ)
1965年3月25日生まれ、ドイツ・ドルフマルク出身。ブレーメン時代は奥寺康彦と一緒にプレーし、1987-88シーズンにはブンデスリーガ制覇に貢献した。1993年のセカンドステージよりジェフユナイテッド市原に加入し、1994シーズンは30ゴールを記録して得点王を獲得。翌年は家庭の事情でドイツに戻るも、1996年には旧JFLのブランメル仙台でもプレーして20ゴールをマークする。西ドイツ代表として2試合出場。ポジション=FW。身長180cm。

著者:了戒美子●取材・文 text by Ryokai Yoshiko