連載 怪物・江川卓伝〜巨人のエース・新浦壽夫の証言(前編)

 1979年、ルールをねじ曲げてでも巨人に入団した江川卓を待ち受けていたのは、茨の道だった。江川自身も小林繁とのトレードで巨人に入団した以上、憎悪に近い雰囲気があるのは覚悟していた。

 1978年の巨人のピッチングスタッフを見ると、12勝の堀内恒夫、13勝の小林繁、15勝の新浦壽夫の三本柱が中心。甘いマスクで球団一の人気を誇り、実力もピカイチの小林と入れ替わりに、"日本一の嫌われ者"となった江川が入ってくる。ピリピリした状況下にいた選手たちの胸中は複雑だった。


キャンプ合流が認められず、自宅近くの小山運動公園で

【夏の甲子園準優勝の18日後に巨人入り】

「あの騒動を見て言えば、読売はやってしまいましたね、という感想です。オーナーの正力(亨)さんがOKを出して、そういうプランを立てたわけですから。どうしてもほしいということで獲ったというしか、僕らは話せないです。ただ12球団全体を見ると、ドラフト制度というルールがあるなかで、そういうことをやってのけるのが巨人かなと」

 新浦は慎重に言葉を選びながら口を開いた。当時の巨人の主力選手として、全体像があまりにも見えず、それしかわからなかったというのが本音だろう。じつは新浦自身も、すんなり巨人に入団しただけではなかった。

 1968年夏、静岡商業の1年生(定時制から全日制に転入したため)の新浦は、エースとして甲子園に導いた。1回戦の伊香(滋賀)戦で被安打2、奪三振15の快投を見せ4対0で勝利すると、その後も抜群の制球力と球威でバッターを圧倒し、決勝進出を果たす。

 決勝は大阪代表の興国。新浦は完投し1失点と好投するも、打線が興国のエース・丸山朗(あきら)に無得点に抑えられ0対1で惜敗。敗れはしたが、新浦は6試合を投げて3完封と堂々の成績を残した。

「高校時代の江川がバッタバッタと三振をとることで、三振がクローズアップされ野球が変わっていきましたよね。僕の時代は、それほど三振というのはクローズアップされていないですよ。たまたま僕が、1回戦で15三振をとった時も『15三振もとる野球なんて教えていない』と監督やOBに怒られましたから。昔の"静商野球"は、塁に出たらバントで送って、三塁までいったらスクイズか外野フライで点を取る堅い野球をしていたのが、三振を15もとるなんて......ひとりで野球をやっているような雰囲気が、OBの方たちは嫌だったんでしょうね」

 60年代後半、まだガチガチのスモールベースボールだった高校野球界に、突如、三振を奪いまくるサウスポーが現れたものだから、プロのスカウトが垂涎の的として注目し始めたのも無理はない。

 しかし甲子園大会後、予想もしていなかった出来事が起きた。福井国体に出るため、3年生たちが引退せずに練習をしていると、<韓国籍(のちに帰化)の新浦は国体に出場できない>という新聞報道が流れたのだ。甲子園での喧騒がまだ落ち着いていないなかでの報道に、秋季大会に向けて練習を続ける新浦は困惑した。国籍問題がここでクローズアップされるとは思いもしなかった。

 じつはこの国籍問題により、事態は急変する。当時の野球協約には「外国籍選手はドラフト制度の適用を受けない」という旨の記述により、高校を中退すれば即交渉可能ということがわかった途端、新浦の周辺が騒がしくなっていく。

 MLBのサンフランシスコ・ジャイアンツを筆頭に日米争奪戦が始まり、大人の事情でアプローチを重ねた巨人に新浦は入団することになった。甲子園大会が終わって、わずか18日後のことだった。事情はまったく違えども、ドラフトの盲点を突いた入団であったという点では同じだと言える。

「そういう形で巨人に入って、ちょうどV4の時だったかな。でも巨人の野球なんて見たことなかったし、長嶋(茂雄)さん、王(貞治)さんも知らなかった。野球はできたけど、野球音痴でしたね(笑)」

 新浦は、プロ野球選手に憧れて野球をやったわけではない。ただ野球ができたので、周りに勧められるがまま、あれよあれよという間に巨人へ入団。自分の意思などなかった。

【長嶋政権1年目に2勝11敗】

 17歳で入団したため、最初の2年間は体づくりに没頭した。入団3年目で一軍に昇格し、4勝、0勝、3勝、7勝と時間をかけながら着実に結果を残していった。そして75年、長嶋茂雄が監督になった初年度、前のシーズンに7勝を挙げた新浦は、多大な期待をかけられた。しかし、投げれば打たれる......の繰り返し。スタンドからは「引っ込め」「帰れ」といった怒声、時には国籍のことを揶揄する罵声を浴びた。それでも新浦は、来る日も来る日もマウンドに上がった。

「長嶋さんに鍛えられたってよく言われますが、それは長嶋さんなりの構想があって、当時の巨人のなかで必要なピースとして白羽の矢が立ったのが私だった。構想を現実にするため『ピッチャーならこいつ』『バッターならこいつ』と、選手をつくり上げていかないといけないという感覚だったと思いますよ」

 プロ野球史上最大のスターだった長嶋は、V9監督の川上哲治のあとを受け、74年に引退と同時に監督に就任。しかし、現役時代は一点の曇りもなかった長嶋だったが、監督に就任した途端、現役時代の栄光とはかけ離れた所業を演じる。

 長嶋一次政権初年度は、屈辱的とも言える巨人初の最下位に終わり、2勝11敗の新浦は"戦犯"のひとりに数えられた。

 新浦にとってこの75年シーズンは、何度唇を噛んだことだろう。新浦は矢面に立って罵声を浴び続けた。ただ2勝11敗という数字の割に、防御率は3.33とそこまでひどい成績ではない。だからといって、世間の評価は変わるわけではない。

 ここで潰れるか、潰れないかの分水嶺に立たされた新浦は、世間を見返すかの如く、翌年から見違えるピッチングを披露し、4年連続2ケタ勝利を挙げる活躍をみせた。江川が入団した79年は3年連続2ケタ勝利を挙げ、名実ともに左のエースとして君臨していた頃だ。

「初めて江川の球を見たのはブルペンです。『いい球を放るなぁ』と思いました。ただ、入団した経緯が経緯なだけに、ジャイアンツファンのなかでも嫌味を言う人が多く、そういうのを聞くのも嫌でした。『やってるな』って黙って見てあげりゃいいのにと。逆に、20勝するような力を持っているといった声も聞こえ、『やってみなけりゃわからんだろうよ』とも。そういった意味で、必要以上に注目されて大変だったと思います」

 17歳でV9まっしぐらの巨人に入団し、コツコツと叩き上げられエースにまで上り詰めた新浦に対し、高校1年からずっと注目を集め続け、常にアマチュア球界の中心人物だった江川。当然、巨人に入った経緯も違えば、お家事情も大きく異なる。艱難辛苦の末にエースをつかみ取った漢(おとこ)と、これから巨人のエースへと一気に駆け上がろうとする若者とが、己のプライドをかけて交差していくのだった。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者:松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin