青森県弘前市出身の歌手・井沢八郎さんが歌った「あゝ上野駅」が1964年に発売されてから60年がたった。歌は、日本の高度経済成長を下支えした地方出身者の熱烈な支持を受けた。かつて「金の卵」ともてはやされ、集団就職列車に揺られて上京した若者たちも70〜80代。首都圏に住む県出身者の胸には今も、当時の熱い思いとともに歌詞が刻み込まれている。

▽郷愁、苦学… 慰めてくれた/向井靖雄さん(田子出身、八王子在住)

 「あゝ上野駅」はまさに自分の歌−。田子町出身の向井靖雄さん(79)=東京都八王子市在住=は、大好きなこの歌を最後まで歌うことができない。途中で涙があふれ、声が詰まってしまうからだ。

 向井さんが集団就職の臨時列車に乗り込んだのは1961年3月。中学校の卒業式から3日後のことだった。

 成績優秀だったが、父親の意向でやむなく就職を決めた。医師やパイロット、弁護士になりたいという幼い頃からの夢は諦めざるを得なかった。

 埼玉県の石油ストーブ製造会社で働く傍ら、定時制の高校に通った。「当時の都会はまるで外国のよう。言葉が通じず、笑われましたよ」。高校の恩師から「向井、英語で言い返せ」とたきつけられ、自ら英語部を創設した。青森県人の「負けじ魂」で毎日、必死で勉強し、必死で働いた。

 ただ、夜になると古里が恋しくなる。深夜布団にくるまっていると、遠くの方から上野発の列車の汽笛が聞こえてくる。「ああ、あれは青森に向かう列車だな。朝には三戸に着くんだな」。寂しさが募り、枕を涙で濡らしたことは一度や二度ではなかった。

 「あゝ上野駅」には「上野は俺(おい)らの心の駅だ」という歌詞がある。向井さんは、とりわけここに強い思いを抱く。

 上京前にかけられた、ある言葉が忘れられない。「お前たちは『口減らし』要員なのだから、もう古里はないと思え」。「そう言われた自分にとっては、本当に、上野駅が古里のような存在だったんですよ」。向井さんは当時を振り返り、涙を拭った。

 夜間の大学に進学し、大手を含めていくつかの会社で働いた。英語を生かした仕事もした。家族にも恵まれた。ただ、つらいことがあるたびに、足は自然と上野駅のプラットホームに向いた。63年前、希望と不安を胸に降り立ったあの場所だ。駅の脇にひっそりと立つ「あゝ上野駅」の歌碑が、静かに向井さんの心を慰めてくれた。

▽でっかい夢 いつも胸に/三浦ひろしさん(旧金木町出身埼玉県越谷市)今も励まされ

 弘前市出身の歌手・井沢八郎さんが歌った国民的ヒット曲「あゝ上野駅」が発売されて60年。「歌い手になりたい」との夢を抱いて上京した旧金木町(五所川原市)出身の作曲家・歌手、三浦ひろしさん(77)=本名・廣、埼玉県越谷市在住=にとってこの歌の「胸にゃでっかい夢がある」との歌詞はまるで自分の半生だ。「もっと闘争心を持って、まだまだ頑張らないと」。今もあの歌詞に励まされている。

 母子家庭だったため、地元での就職を勧められたが、志が勝った。金木高校を卒業した1965年春、集団就職の一人として芦野公園駅から旅立った。母は別れがつらかったのか、ホームには見送りに来なかった。「でもどこかで見ていたかもしれないな」と今では思う。

 到着した上野駅で目にしたのは「金の卵」を取材しに来た新聞記者たち。カメラのストロボがたかれ「誰か有名人が乗っているのか」と驚いたという。

 就職した会社では、配属された山梨県の支店を3カ月ほどで退職した。新聞で見つけた「歌手募集」の記事を頼りに東京へ。生活費をアルバイトで稼ぎつつ、流しで歌いながら飲み屋を回った。

 お金のことはいつも心配だったが、不思議と苦しかったという記憶は無い。歌が好きで、諦めるつもりはなかったからだ。

 良き師に出会い、81年にデビュー。母校の創立30周年の記念式典には歌手として招かれ、5、6曲を披露した。

 「あゝ上野駅」は、上京した後に初めて耳にした。当時は「こんな歌があるんだ」と、鼻歌を歌いながら覚えたという。あれから60年、今は自身が経営するカラオケスタジオで、お客さんのリクエストに応えて「あゝ上野駅」を歌うことがある。

 「歌うたびに津軽の情景が浮かんでくる。歌詞が自分にぴったりで、いろいろ思い出してしまうんだよね」とはにかむように笑った。

▽たぶん父がお膳立て・歌う素晴らしさ学んだ/俳優・工藤夕貴さん歌い継ぐ 井沢八郎さん長女

 井沢八郎さんの長女で、俳優として活躍する工藤夕貴さん(53)が「あゝ上野駅」を歌い継いでいる。取材に対し、昨年11月にCDを出すまでの不思議な巡り合わせや、井沢さんのファンへのあふれる感謝の気持ちを口にした。

 「あゝ上野駅」を歌うことになるとは思ってもいませんでした。父が「あの歌は難しい」と言っていたのを覚えていたからです。

 歌うきっかけは一昨年、日本歌手協会に入ることになり、父の歌を歌うのがいいんじゃないかと課題曲でもらったのが「あゝ上野駅」。そして昨年4月、日本歌手協会のステージに出ることに。そのステージで五木ひろしさんが思いのほか私の歌を感動してくださり、「お嬢さんが歌い継ぐべきじゃないか」ってエールをいただいたんです。五木さんの作曲で、アンサーソングのカップリング曲「父さん見てますか」もあっという間に出来上がり、まさかまさかで出発しちゃった感じです。

 発売60周年の節目というのは全く知らなかったんです。だから少し気持ち悪いところもあって(笑)。不思議な巡り合わせに運ばれてきた感じ。たぶん父が全部お膳立てしてくれたんだろうって思います。

 子どもの頃、父の舞台を見たとき、いろんな方が父の手を握り、父の歌を聴いて泣いていました。神々しいものを感じ、「パパってすごいな」と感動したことを覚えています。

 舞台で歌っていると、皆さんが私を通して父を見ているのが分かります。つくづく私は男でなくて良かった。男だと父と比べられちゃうじゃないですか。でも、父がそこに居ると思われるように歌いたいんです。

 父のファンの方々に私がエール、というよりも私がエールをもらっている感じです。感謝してもしたりない。歌うことの素晴らしさを教えていただいています。

 ◇

 井沢八郎 本名・工藤金一。1937(昭和12)年3月18日生まれ。弘前市の豊田中(現弘前五中)卒。57年に20歳で上京し、作曲家・大沢浄二氏に師事する。63年デビュー。東芝から64年3月にリリースした「あゝ上野駅」は計60万枚を売り上げた。66年に「北海の満月」でNHK紅白歌合戦に初出場。2007年1月死去。享年69。