今から424年前に日本に突然やって来て、徳川家康と運命的な出会いをし、激動の時代を駆け抜けた三浦按針。その足跡を描いた大島昌宏著『海の隼─参謀・三浦按針』を元にさまざまな場所を訪れた本連載の締めにあたって、按針の菩提寺である逸見・浄土寺の逸見(へんみ)道郎(みちお)住職にお話を伺い、あらためて”按針がいたニッポン”を振り返ってみる。

京急線逸見駅からゆっくり歩いて5分ほど。背後に浦賀道最大の難所であった十三峠を控え、前面には横須賀港を望む場所だ。

「なんと美しいところだ」(第二章)。初めてここを訪れた按針は感嘆の声を上げ、最期の場面では「逸見の里は、ヤマザクラの盛りであった」と走馬灯のように帰れない地を夢見ている。

そんなのどかな地にある浄土寺は鎌倉幕府の有力御家人だった畠山(はたけやま)重忠(しげただ)が建立したと伝わる、八百年を超える歴史のある寺だ。

そこに、史上初の外国人領主、三浦按針がやって来たわけだから、さぞかし当時の人々は驚いたろうと思うが、実際はどうだったのだろうか。

「イギリス商館長・コックスは按針とともにこの地を訪れ、妻ゆきから豪華な接待を受けた、と日記に残しています」と逸見さんは語る。「按針の帰還を喜び、領民たちはパンやワイン、オレンジやイチジク、栗やぶどうを持って来たそうです。江戸時代の初期にそんなことができるということは、奥さん(ゆき)が”旗本の奥方”という立ち位置でしっかり仕事をしていたからではないでしょうか」。さらに按針が平戸から逸見へ戻る際には「妻ゆきの使いで、逸見の領民が白パンに当時は入手が難しかった牛肉の醤油漬けとワインを届けた、という記録もあるのです」

そもそもイギリス商館が、家康が望んでいた浦賀ではなく平戸に開設されてしまったのも「牛肉が手に入りにくい」ことが理由の1つだ。そういうことからも、領民が按針を慕い、妻の”内助の功”があったことが想像できる、と逸見さんは言う。「資料が残っていないので、その部分は歴史の表ステージに上がって来ない。本当にミステリアスな部分なんです」

だからこそ、想像を巡らせるのは重要なこと。人々の心が按針の記憶を後世につないでいくことこそが、何よりも大切なことなのかもしれない。

その一例として逸見さんは、塚山公園にある按針墓の形を挙げる。「於大(おだい)の方(家康の母)など、当時の徳川家の重要人物と同じような形状です。ということは、それだけ高いレベルで扱われていたのではないでしょうか。それが、今も当時のまま残っているのです」

さらに、按針の江戸屋敷があった日本橋按針町の人々は、按針が亡くなって170年ほど経った寛政年間に、按針墓の前に石灯篭を、そして220年経った天保時代には打敷(うちしき)と呼ばれる仏像の荘厳具を、浄土寺に寄進している。「これを見ると、按針がいかに人々に慕われ、それが何年たっても受け継がれてきたことが分かります」

本書第五章では、逸見でゆきとの結婚の儀式が行われ、村人を招いての祝宴で按針が酔って前後不覚になる場面が描かれている。そのようなことが本当にあったかもしれない、と思うくらい、彼と実際に触れ合った人は、その思い出をさまざまな形で長い間伝え続けてきたのだろう。

按針が逸見にもたらしたものはもう1つ”貝葉経(ばいようきょう)”だ。「これは按針が朱印船貿易で持ち帰ったお土産、南伝仏教の経文です。パーリー語(古代インドの言語)をクメール文字で書かれた、現存する世界最古の貝葉経と言われています」。これを見ると、按針は日本の人々の暮らしや考え方、そして宗教観について、実際に自分の目で確かめ、学び、人々と語り合っていたのではないかと思う。

実際、それが最大化されたのが外交だった。「スペインの侵略から日本を守ったのは、家康と按針のタッグ。もし按針が存在しなかったら、日本はスペイン領になっていたかもしれません」。決定的な出来事で何かを成し遂げたわけでなく、誰かを出し抜いたわけでもなく、その存在が良い影響を与え、結果として世の中が変わっていく──。そのきっかけとなった按針こそ、派手ではないが”真のヒーロー”と呼べる人なのだろう。

しかしそもそもなぜ家康は按針を見込んだのだろうか。次回は引き続き、家康との絆、そして按針の核心に迫っていく。(後編に続く)