竹末さんは、長崎県長崎市に生まれました。両親はともに大卒で、教育関係の仕事をしており、教育熱心な家庭でした。

「父は京大の理学部数学科出身の予備校講師で、数学者や銀行員が多い家系でした。母も国立大の理学部を出て、プログラマーをしていたのですが、5歳くらいのときに公立大を再受験して入学し、大学院まで出て保健師になり、最終的には大学教員になりました」

一人っ子ということもあり、教育にお金をかけてくれた両親の存在は、人生において大きな影響を与えたそうです。

また、学問で道を切り拓いてきた両親の姿を小さいころから見ていたこともあり、竹末さん自身も「勉強を頑張ることで、いい人生を歩める」という高いモチベーションを持って、勉強に取り組めたそうです。

「本をたくさん買ってくれる家庭でした。小学2年生のころから父の勧めで学習塾の英進館に入って勉強をしていたのですが、理数系の成績がよくて、数学者家系の父方の遺伝を感じましたね。塾では、九州で1位の成績を何度か取ったことがありました」

抜群の成績を小学校の終わりまでキープした竹末さんは、塾の勧めで桜蔭中学校を受験しますが、残念ながら落ちてしまいます。「周囲に通える学校がない」という理由で、滑り止めは受けなかったようで、そのまま公立中学校に進みました。

中学に進んでからの竹末さんは、自ら「完璧主義」と語る性格もあって、3年間、文化部の部長や生徒会役員を務めながら、副教科を含めた9教科で1位の成績を守っていたそうです。

高校で先生の指導が合わず、授業も出なくなる

中学生を対象とする数学コンテストである「広中杯」でも全国決勝に進むほどの華々しい活躍を見せ、高校受験もそのまま推薦で県トップの公立高校に合格します。

しかし、この順風満帆の学生生活は進学を機に様相が一変しました。

彼女は300人いる同級生の中でも1桁に入るほどの成績を取っていましたが、高校の先生の指導と相性が合わず、授業に出なくなり、みるみるうちに成績を落としてしまったようです。

この時期、竹末さんは彼女自身も大きな苦悩を抱えていたそうですが、周囲の教師への不信感から、何も相談できずに抱え込んでいたそうです。