政治家の謝罪などでよく聞かれる決まり文句のひとつに「気分を害したのであれば申し訳ない」というものがあるが、これは果たして謝罪になっているのか。そもそも誠意のある謝罪とはなんなのか。アメリカ人気コメディドラマ『グッド・プレイス』の脚本家であるマイケル・シュア氏が、哲学的な視点からユーモアも交えつつ鋭く切り込む。

※本稿はマイケル・シュア著『How to Be Perfect 完璧な人間になる方法?』から一部抜粋・再構成したものです。

謝罪にはよいバージョンと悪いバージョンがある

謝罪のやっかいな点は、その行為の直後には、他人の前で過ちを認めることの気まずい、ぎこちない悔しさしか頭にないということだ。よい点(回復、成長、解決)は、目に見えにくい。

謝罪そのものは「道徳的」行為ではないが、私には道徳と隣り合っているように見える。意識して試すことが倫理的向上のポイントで、失敗は避けがたい結果だとしたら、謝罪はその失敗の退職者面接だ。自分は何をしたのか? なぜそうしたのか? 他人に対する影響について何を学んだのか?

謝るときの不快感(誤解していた人に対して過ちを認めることの赤っ恥)はメリットだ。私たちが自分の引き起こした苦痛を感じ、引き起こしたのはほかならぬ自分自身だと意識するのだ(アリストテレスによれば、恥を感じられない人には不名誉の感覚がない)。

こうした感情は、みずからの身体が苦痛を癒やそうとするインフルエンザの症状にも似ている。だが、謝罪はそうした不快感に満ちているので、たいていの人は謝るのが下手だ。

どんなことでもそうだが、謝罪にもよいバージョンと悪いバージョンがある。深呼吸して、恥に対する恐れと向き合い、そのうえで実際に謝れば、正しくできるはずだ。