「気づいとったよ。あれは、教師人生、最初で最後のできごとやったね。疲れて日記を忘れる日はみんなある。でも、お母さんは、それを見逃さんで、ちゃんと気づいて代筆なさった。お母さんは必死で子育てされとった。そんなお母さんの気持ちを思ったら、井手くんを叱れるわけがないやろう」

貧しさと闘いながら、私を育ててくれた母。よほどうれしかったのだろう。カウンターの向こうで彼女は泣いていた。そして、目にハンカチをあてながら、<その後の物語>を僕たちに語ってくれた。

それは4年生最後のPTA会合だった。親御さんから先生に「感謝の胴上げを」という声があがった。だが、先生は、「私じゃない。歯を食いしばって子育てをしている井手くんのお母さんを胴上げしてください」とおっしゃったそうだ。

「みんな、『そうしよう!』と言って、胴上げしてもらったとよ」

母は泣きつ、笑いつ、そう言った。先生は照れくさそうにお酒を飲んでおられた。

みなさんは、子どもの習いごとの発表会に足を運ぶ幼稚園の先生をどう思うだろう。先生に弁当を作ったり、花を持たせたりする親をどんな目で見るだろう。子どもの代わりに親が宿題をやる、そんな親を先生がほめ、同級生の親が胴上げをする……。

なんて大らかな時代だったのだろう、と私は思う。つけ届けや過保護を正当化する気はない。先生と親、親と親の<距離感>を聞きたいのだ。

「公平さ」の名のもとに増える禁止事項

教育者の端くれとして思う。私たちは、教員の公平な態度を考えるとき、親=子=先生の距離感を型にはめて考えがちだ。あるべき距離感、杓子定規な態度を<常識>とみなす。

例えば、バイオリンを習えない貧しい家庭の子がいる。その子と平等にあつかうために、バイオリンを習っているお金持ちの子は特別扱いしない。きちんと自分で宿題をやってくる子がいる。だから親が代わりに宿題をやった子を叱る。

まったくの正論だ。だが、学校の先生は、この<正論>しか選択してはいけないのだろうか。もしそうなら、公平さの名のもとに、禁止事項が増える一方ではないだろうか。