「ピンチはチャンスなんて言うけど、その瞬間は無理だよ。僕はそんなにメンタルが強くなれない。ただそれを越えられたら、あのピンチは自分にとってチャンスだったのだと思えることはたくさんあった」

野球のイチロー選手はそう語っていました。さすがに今回の福ちゃんの件に関しては、僕もピンチはチャンスなんて思えません。目の前にあるのは、繁殖牝馬になれるまでの4歳までの預託費の支払いと、いつ何時、怪我をしたり事故にあったりするかもしれないという心配とその際にかかる医療費の負担です。どこからどう見てもピンチしか見えません。

碧雲牧場の慈さんは、「ダートムーアの23とスパツィアーレの23が今年のセリで売れるまで、当面の間は福ちゃんのみならず、ダートムーアとスパツィアーレの預託費は無料にします、お見舞金だと思ってください」と提案してくれました。僕が今の段階で2000万円近くのマイナスを掘っていることをうっすらと気づいていての優しさなのかもしれませんが、碧雲牧場に甘えてばかりいても仕方ありません。何とか福ちゃんが自分で生きてゆける仕組みをつくれないものかと考えました。そこでひらめいたのは、福ちゃんのことを発信して、サポートしてくれる人を募ろうということです。

福ちゃんの生きる道を見つけようと模索する中で、ニコニコ競馬で放映されている「リアルダービースタリオン」が頭に浮かびました。2017年にスタートした「競馬×ゲーム×ネット」という視聴者参加型の番組です。繁殖セールにて購入したシュシュブリーズを藤沢牧場に預託し、配合を決めて種付けをして、その産駒たちが走るのを皆で応援するという、今年で7年目を迎える壮大な企画。最初の産駒は出産後に亡くなってしまいましたが、2年目に誕生したクールフォルテは東京2歳優駿牝馬で3着、浦和の桜花賞で2着と大活躍し、第2仔のモーメントキャッチ(通称モキチ)はYGGホースクラブで募集され、中央競馬で勝ち上がりこそできませんでしたが、2着6回で1600万円以上の賞金を稼いでいます(現在は屈腱炎からの療養中)。つい最近、偶然にもニコニコ競馬の担当者を紹介してもらう機会に恵まれたこともあり、思い出したのです。

福ちゃんの成長を発信し、多くの競馬ファンに知ってもらい、応援してもらうのは面白い企画だと思いました。片目というハンデがあっても、普通に生きていくことができ、母として活躍することもできるという道を示すことにもつながるかもしれません。また、福ちゃんを育ててくれている碧雲牧場のことも、より多くの人たちに知ってもらえる効果もあるでしょう。あわよくば視聴者さんからの投げ銭などによって、福ちゃんがエサ代を自分で稼げるようになるかもしれません。クラウドファンディングという案も出ましたが、お金を集めることが目的ではありませんので、福ちゃんの成長を見守ってもらうテーマとは合わない気がしました。まずは福ちゃんのことを知ってもらうことが大切なのではないでしょうか。

そこで企画書を作成し、ニコニコ競馬に相談し、意見やアドバイスをもらおうと、株式会社ドワンゴまで足を運びました。東銀座にある歌舞伎座タワー(新宿の歌舞伎町タワーとよく間違えられるそうです笑)という立派なオフィスビルをエレベーターで12階まで上がり、ミーティングルームに通され、担当者さんたちと話をすることができました。彼らも福ちゃんの企画には共感してくれて、サポートしてくれる気持ちを表明してくれました。彼らには7年間、リアルダービースタリオンを運営してきた中で培った経験やノウハウがあるので頼もしいです。そして何よりも、僕にとって勉強になったのは、中の人であるIさんが語ってくれたリアルダービースタリオンの歴史や経緯です。雑談のような形で、こういうことやあんなことがあってと細部まで教えてくれて、その話を聞く中でリアルダービースタリオン的なコンテンツを運営するイメージがはっきりと見えてきたのです。悪い意味で。歌舞伎座タワーからの帰り道、僕は60kgの斤量を背負わされたような重たい気持ちでした。厳しい現実を突きつけられた気がしました。福ちゃんの企画に暗雲がたちこめるがのが分かっていたかのように、外は土砂降りでした。

僕が感じた「リアルダービースタリオン」の成功要因は、定点カメラを設置し、牧場における馬たちのリアルな生活を映し続けたことです。当初は16時から21時の5時間でスタートしたようですが、それが8時間となり、現在は24時間の生中継として配信されています。いつ見に行っても生のシュシュブリーズに会うことができる。仕事をしながら観る人もいれば、お昼休憩中にちょこっと覗く人もいれば、夜の暇な時間にのんびりと見る人もいれば、夜勤明けの朝に見て癒される人もいるのです。そうして、シュシュブリーズは自分の生活の一部になり、離れていても時間を共有している、まるで自分のペットや家族のように感じられるようになるのではないでしょうか。そこまでやったからこそ、多くの人たちに愛されているのだと思います。

ところが、立場を変えて見ると、牧場の人たちは日々の仕事を常に見られているということでもあります。シュシュブリーズの馬房であったり、放牧地であったり、定点カメラが設置されている場所の周辺は、映り込みもしますし、音声も拾います。別に見られて困るようなことをしたり、馬房を掃除しながら誰かの悪口を言ったりしているわけではありませんが、牧場の人たちにとっては職場であり生活の場の一角が常に見られている、世界に向けて発信されているというのはどういう気持ちでしょうか。それを楽しめる人もいるでしょうし、監視されていると感じる人もいるかもしれません。

メリットがあるかどうかは実際にやってみて、やり続けてみなければ分からない反面、リスクはある程度、想像できてしまいます。この企画を慈さんが牧場スタッフの皆さんに通すのは難しいだろうと僕は感じたのです。いったん始めた以上は、最後までやり続けなければならず、そうするとこの企画を嫌がる人が一人でもいれば、良くない結果につながるかもしれません。福ちゃんのために始めたことが、長谷川家や牧場のスタッフさんにストレスを感じさせることになったり、牧場がひとつになることを妨げたりしては本末転倒です。

リアルを知ったからこそ、碧雲牧場の慈さんに提案するのは気が引けました。「福ちゃんのためなら何でもしますよ」と言ってくれていましたが、できることとできないことがあるはずです。おそらく僕が慈さんの立場であっても、牧場の皆さん全員からOKを得るのは難しいと考えたと思います。ただ、他者がどう考えるかを先回りしすぎて、勝手にダメだと決めつけて提案しないのも良くないので、メリットとデメリットをきちんと伝えた上で、あとは碧雲牧場で話し合って決めてもらおうと思い、電話をしました。慈さんも全てを理解してくれたようで、「みんなに話してみて、検討します」と言ってくれました。ピンチをチャンスに変えるのは、言葉で言うほど簡単ではなく、ほとんどの人にとって難しいのです。だからこそ、ピンチはピンチのままで終わってしまうのでしょう。

(次回へ続く→)

著者:治郎丸敬之