競馬には色々な格言、定石というものがある。スローペースなら先行馬。ハイペースなら差し警戒。そんな展開読みから導く優位な位置取りもそのひとつ。そして、展開、つまり流れを読むのは競馬において非常に大切だ。騎手のコメントには「緩い馬場で走りにくそうだった」「もう少し流れてくれれば」といった馬場や流れを敗因に挙げる場合が多い。そんなコメントを参考にし、我々は馬の個性を読み解き、展開を読み、レースの骨格をつくりあげ、勝手にその形でもっとも走るだろう馬を導く。

そんな定石に逆らってやろう。穴屋はそんな気概に溢れている。そして、得てして逆らうことが正解だったりするから競馬はやめられない。スローペースでも末脚比べに強い差し馬がいて、ハイペースでも止まらない先行型がいる。逆張り大好き穴屋も腰を抜かした競馬がある。

それが2009年NHKマイルカップ。主役は10番人気ジョーカプチーノだ。

いわゆるハイペースの前残りというヤツだが、逆張りおじさんもさすがに驚いた。なぜなら、NHKマイルCはハイペースになると、残り400mから前と後ろが一気に入れ替わるレースだからだ。まだまだ体力が完全につき切っていない3歳春に東京芝1600mで突っ込んで入れば、坂を上がった残り200mでしんどくなる。もともと東京芝1600mは逃げ馬には辛く、先行型もよほど力差があったり、超スローペースにならない限り、ゴールまで粘り切れない。序盤から中盤にかけて直線が続き、コーナーの半径が大きいため、緩急がつくりにくく、息を入れにくいレイアウトだからだ。よく東京マイルは中距離適性がないと乗りきれないと言われるが、一定のスピードで1600mをゴールまで駆け抜けるには、スタミナの裏づけもないとならないからだ。

これが定石だとするなら、ジョーカプチーノのNHKマイルCはそれを見事にひっくり返した。快足で重賞を勝ったゲットフルマークスが距離の壁など知るものかと逃げ脚を伸ばし、大逃げの形に持ち込むと、ジョーカプチーノはそれを追いかける姿勢をみせた。多少、ムキになってるかのようにみえ、これはゲットフルマークと共倒れになるだろう。中盤にかけてはそんな雰囲気だった。序盤600mは12.2-10.8-11.3で34.3。短距離戦のような数字が並ぶ。さらにここからラップは落ちない。11.2と続き、前半800mは45.5。1000m通過は57.2を記録。破壊的なラップ構成といっていい。だが、直線に向くと、ジョーカプチーノはゲットフルマークスを交わすどころから、そこから末脚を伸ばしていく。後半600mは11.5-11.7-12.0。前半の激流に耐えただけではない。後半でラップをあげ、ゴールまでラップを極端に落とさない。ハイペースでもバテない。いや、東京のマイルでこの芸当は到底できるものではない。ジョーカプチーノが止まらないなら、後ろは迫りようがない。むしろ後続はハイペースを追いかけるうちに、自らの体力を失ってすらいった。追いすがるもののうち、抵抗できたのは位置取り的に前にいたレッドスパーダとグランプリエンゼル、マイネルエルフ、フィフスペトルぐらいだった。この馬たちの多くは1200、1400mで実績をつくり、ここに駒を進めたか、その後、1400m前後を得意とした。マイル戦も度を越えると、スプリント力に耐えられるか否かの我慢比べになる。短い距離でのハイペース耐性は時にマイル戦でも強みとなる。距離の長短とは単純には判別できないものだと教える。

なぜ、ジョーカプチーノはこんな走りをできたのか。定石をすべて壊せる心肺機能の強さはどうやって作られていったのか。その戦歴をたどると、異端ぶりと同時とことごとく定石を覆した馬だったことがわかる。初勝利は4戦目の中京ダート1700m。騎乗したのは逃げの名手中舘英二騎手だった。五分のスタートから自然流でハナに立ちながら、最初のゴール板手前で鞍上は思い切り抑え込もうとしている。前を行く姿勢、いわゆる前進気勢が強く、闘志とスピードでライバルたちを圧倒したのだ。先々を考え、競馬を教えようという鞍上の意図など知らず、ジョーカプチーノはぶっ飛ばし、そして逃げ切った。これも中京ダート1700mだから勝ちに結びつけられた。旧コースの中京は4コーナー出口がゴール板といわれるほど、先行絶対優位なコース。多少なりとも体力が残ってさえいれば、逃げ切れる舞台だった。

5戦目はクロッカスS。芝に挑戦した。中京でのスピードを考えると、むしろ芝の方がいいという判断だった。だが、不良馬場にスピードを削がれてしまい、7着に敗れると、次は1200m戦へ進んだ。抑えきれないスピードを制御するにはスプリント戦しかなかった。のちにともに初GⅠを飾る藤岡康太騎手とコンビを組んだ小倉の萌黄賞では前後半600m33.3-35.6のハイペースを逃げて押し切った。さすがにスプリント戦では引っ張り切りというわけにはいかず、促されながらではあったが、ジョーカプチーノは自由を得た。こうなれば、立派なスプリンターだ。次は当時、芝1200mのスプリント重賞だったファルコンS。さすがに重賞クラスとなると、スタートダッシュが違うのか、先手を奪えず、中団からの競馬を余儀なくされる。逃げて勝ってきたスピード型が先手をとれず、鞍上が促しながら追走する。レース経験の浅い3歳が得意の形を崩され、やったことない競馬をする。これは定石ならば、飛ぶパターンだ。しかし、ジョーカプチーノは直線で大外へ持ち出されると、頭を下げ、姿勢を低くして伸びてきた。定石をものともしない姿はここにルーツがある。同時にこのレースでは、ジョーカプチーノはスピード任せの自由な世界から最後に自由になる世界観を学んでいた。きっと、最後に自由になる楽しさを覚え、前半は適当に走ることを選ぶようになったのではないか。

こうして速いけど、最後に伸びるジョーカプチーノは完成した。NHKマイルカップのレース後、藤岡康太騎手のコメントに定石とはなんなのかを知る。

「少しハミを噛むところがありましたが、折り合いはつきました」

ペースとは速いか遅いかではない。それはいかにリズムがとれているかどうかにある。いくら速くても、人馬の呼吸が整い、リズムを乱さず走りさえすれば、馬は体力を残すことできる。消耗とはペースでは測れない。こればかりは、外側から見ている人間にはわかりようがない。爽やかな笑顔で語る藤岡康太騎手は競馬の奥深さを教えてくれた。

写真:Hiroya Kaneko

著者:勝木 淳