[紙幣新時代]<上>

 渋沢栄一が肖像の1万円札など20年ぶりとなる新紙幣の流通が7月3日に迫る。6月末までに国立印刷局から日本銀行の本支店に納入される新紙幣は約52億枚に上る見通しだ。国内の現金自動預け払い機(ATM)約18万台、自動販売機や両替機など約390万台を新紙幣に対応させる改修作業は膨大で、これに伴う費用は少なくとも5000億円と推計される。

 前回2004年の改刷では、日本国内に流通するお札約71兆円の6割近くが、1年で新紙幣に入れ替わった。現在の流通量は約121兆円まで膨らんだが、その半分、約60兆円が「タンス預金」として眠っているとの試算もある。

 コロナ禍を経て、現金を使わないキャッシュレス決済が増えたものの、国内決済の6割はいまだに現金が占める。日本人の現金への信頼は深い。

 「日本の資本主義の父」と称された渋沢栄一。女性教育に生涯をささげた津田梅子。破傷風の治療法を確立した北里柴三郎。激動の時代を生きた先駆者3人を肖像とする新紙幣は、マネーのデジタル化が進む変革期に、どんな影響をもたらすのか。

 「令和の改刷」を通じて紙幣の現在地を見つめ、過去から未来を展望する。

精算機のキャッシュレス化進む

 東京都大田区のコインパーキング。新紙幣発行まで2週間を切った20日、区内約70か所で駐車場を営業するミノラス不動産の角田光佑主任(30)が、精算機の更新を急いでいた。

 精算機を開け、10分ほどかけて新紙幣対応の読み取り機に交換する。読み取り機の入荷が遅れているため、更新は半分程度しか済んでおらず、7月3日には間に合わない。角田主任は「利用者が多い駐車場を優先し、少しでも迷惑をかけないようにしなければ」と話す。

 20年ごとの改刷のたびに繰り返されてきた光景だが、新しい動きもある。現金を使わないキャッシュレス決済専用機への切り替えが、同時に進んでいるのだ。

 ミノラス不動産も今年から、キャッシュレス専用の駐車場を設けた。利用者は支払い時間が短くなる。業者にとっても、売上金回収の手間が省け、盗難リスクもなくなる。

負担に恨み節

 「偽造防止の狙いはわかるが、我々にはマイナス。頼んでもいないのに、券売機の更新費用を負担するのは店側だ」

 東京都葛飾区のラーメン店「豪麺MARUKO(マルコ)」の西谷寛店長(42)は不満を隠さない。小麦や豚肉など原材料の高騰が続く中、新紙幣対応は経営の足かせになる。当面、新紙幣での支払いには手作業で対応するが、「回転率が落ちかねない」と懸念する。

 パチンコ業界への影響も大きい。業界団体の試算では、500台程度を置く中規模店で紙幣識別機を全台交換した場合、1500万〜2500万円の負担が見込まれるという。関係者は「経営が厳しい中、業界には大きな投資になる。休業せざるを得ない店もあるかもしれない」とこぼす。

 関連機器を供給する側には商機だ。現金処理機の世界大手グローリー(兵庫県姫路市)は昨年度、新紙幣対応機器やプログラム更新で売上高が500億円も増えた。現金自動預け払い機(ATM)製造大手の沖電気工業(東京都港区)も、昨年度の生産量が倍増した。更新需要は今年度いっぱい続く見込みだという。

利上げ影響は

 日本の国内総生産(GDP)600兆円弱の1割を占める規模と言われる「タンス預金」の行方も注目される。手元にためていた現金を銀行に持ち込み、新紙幣に替える動きが起こると見込まれるためだ。第一生命経済研究所の試算によると、前回2004年の改刷では、タンス預金の残高が一時、前年より7・5%減ったという。

 ただ今回、タンス預金が消費や預金、投資として世の中に出回るかどうかは読みにくい。

 東京都内の自営業男性(84)は、「銀行窓口で使い道を聞かれるのが面倒」といった理由からタンス預金を続けてきた。今は自宅に約200万円を置いている。「新紙幣に替わっても、今のお金は使える。預金しても利息はほぼゼロだし、両替する必要も感じない」と冷静だ。

 ある信託銀行員は数年前、高齢の顧客から「自宅にある現金を取りに来てほしい」と頼まれた。タンスや金庫から、聖徳太子の1万円札の束や、湿った紙幣が次々と現れ、目を丸くした。1万円札の肖像が聖徳太子から福沢諭吉に替わったのは1984年。30年以上、しまい込まれていたようだ。行員は「デフレと低金利が高齢者のタンス預金を招いたのだろう」と話す。

 日本銀行は3月、17年ぶりの利上げに踏み切った。マイナス金利政策を解除し、「金利のある世界」が戻りつつある。政府は1月に新NISA(少額投資非課税制度)を始め、国民に資産形成を促した。令和の新紙幣をきっかけに、塩漬け状態のマネーが息を吹き返すかどうかは、日本経済にも影響を及ぼす。

偽造防止技術の見本市

 紙幣の歴史は、偽札との闘いの歴史でもある。1961〜63年には計343枚の偽千円札が出回る「チ―37号事件」が起きた。印刷が精巧で、本物とは手触りがやや違う程度だった。戦後最大の偽札事件を受け、肖像を聖徳太子から伊藤博文に替えた新千円札が誕生した。

 肖像の最終候補には渋沢栄一も残っていたが、ヒゲの有無が命運を分けた。豊かなヒゲを持つ伊藤の方が、偽造防止に役立つ複雑な表現ができると判断された。

 今回の新紙幣は、傾けると肖像が立体的に動いて見える世界初の3Dホログラムを導入した。渋沢の肖像には今回もヒゲがないが、60年前をはるかに超えた最新技術が安全性を支える。

 紙幣に詳しいリコー経済社会研究所の芳賀裕理研究員は、「日本の紙幣は、偽造防止技術の見本市と言えるほど多彩な対策が採られている。その技術は世界トップクラスだ」と語る。