子どもの頃から変わらずそこにある風景

親は子どもの幸せを願い、子どもはどこまでいっても親を慕うものです。思いや言葉がうまく伝わらずに生じる、ちょっとしたひび割れはどの家族にもあるもの。すっきりしないモヤッとした感じを丁寧に描きたいと思いました。

そして読んでくださった方が、ちょっとしたひび割れも安心してモヤッとしていいんだとか、でもみんな誰かのためを思っているんだよね、と受け止めてくださればと思います。

おとぎ話のように、めでたしめでたしでは終わらないのが人生です。そこからまた明日が始まる。目の前に立ち込めていた霧が風で一瞬消えても、まだモヤッとしているところがあって、また別の霧が立ち込めてくるなかを歩いていくんです。

家族はつながりが切れない関係だから、そうやってその都度向き合って生きていけばいいんじゃないかな、と思いながら書きました。

今回書いていて楽しかったのは、春斗が見たいと言って、工房の面々とともに行くお祭り「チャグチャグ馬コ」の場面です。装束をまとった馬が行進する初夏の行事なのですが、取材のため何十年かぶりに見物。変わらないものっていいなと思いました。

そういう意味では『風に立つ』で書いた親子が抱える問題って、昔から多くの家族が経験してきたものだと思います。だからチャグチャグ馬コとか、岩手山、空や川といった、私が子どもの頃から変わらずそこにある風景が、書くうえで背中を押してくれました。

書いているうちに、やっぱり五感が覚えているものなんだなあと、かつての記憶を掘り起こすこともできて。思い切って書いてよかったなと思います。