大阪桐蔭高時代にMAX156kmをマークし、2006年にドラフト1位で巨人に入団した辻内崇伸さん。2013年秋に現役引退し現在は秋田県で現金輸送の仕事に励む左腕に、壮絶な怪我との闘いと8年間のプロ生活、そして第二の人生について聞いた。〈全3回の1回目/続きを読む〉

 JR秋田駅から車で15分ほど。辻内さんはセキュリティサービス会社「ALSOK秋田」で業務に精励していた。185cmの長身を包んだ紺色の制服姿は、他の社員に比べて一回り大きく見える。巨人での現役時代、晩年に見せていた苦悩の色は抜け、その顔には柔和な笑みが浮かんでいた。

「今、めちゃめちゃ楽しいんです。職場が楽しくて、仕事が楽しくて……。こんなに楽しい仕事ってないな、って思います」

防弾ベストにヘルメット

 現在は「警送」という警備輸送業務に従事する。二人一組で大きな現金輸送車を運転し、県内各地を回ってATMに現金を装填したり、顧客の現金を輸送することが主な仕事だ。危険も伴うため、普段は制服の上に防弾ベストを着てヘルメットを被り、警戒棒を持ち歩く。

「仕事は5年目になりますね。自分の運転でお客様のところに行って、現金をお客様に渡す。緊張感がある仕事だし、達成感があって楽しいです。秋田は雪が降るから運転は大変。ホワイトアウト状態になって、全く前が見えないなか逆走してくる車を避けながら進んで行ったこともありましたね」

「普通の人」が一番嬉しい

「めちゃめちゃ楽しい」。その言葉から心底の喜びが伝わってきた。今も時々、仕事先などで「巨人の辻内」と気づかれることがあるという。その時は「違います」と答えるのだと言って笑った。

「あ、違います、って。仕事中にあまり喋っていると長くなりますからね。職場の仲間は、最初に入ってきた時から元プロ野球選手だから、という特別扱いは一度もなかったです。ミスがあればきちんと注意したり怒ったりしてくれる。うん、普通の人になれたことが一番嬉しいかもしれないです。家族とも以前より一緒にいる時間が多い。ここで仕事をして、家に帰ってご飯を食べて寝て、また仕事する。そういう規則正しい流れが自分にはあっているし、凄く嬉しいんですよ」

 いま36歳。妻と子供二人との、堅実で穏やかな暮らしがそこにはある。

怪我との戦いは高校時代から

 辻内さんの野球人生は、怪我と隣り合わせだった。左肩痛に悩まされ、左肘にはトミー・ジョン手術のメスを入れた。プロ8年間で一軍登板はなし。リハビリに明け暮れ、わずかに見えた光を追いかけては激痛に何度も膝を折る毎日だった。振り返ると、初めて左肘に痛みを感じたのは大阪桐蔭高時代に遡るという。

「いつから、というのが分からないくらい、肘の痛みとはずっと付き合ってきました。3年生の時は大会で連投することもあったので、試合で投げて、戻ってきて同部屋の同級生にマッサージをしてもらって、次の日に痛み止めの注射を打ってまた投げる、という感じでしたね」

 今でこそ常勝軍団のイメージが強い大阪桐蔭高だが、当時は強豪のPL学園と履正社に挑む立場だった。エースは辻内、主砲に平田良介(元中日)、2学年下には“怪物”中田翔(中日)が入部してきた。甲子園出場へ、またとないチャンスが訪れていた。

運命を変えた「1球」

「監督さんにも許可を得ながら個人病院に行って注射を打って……それが普通のことだったのかは自分には分からないです。でも最後の年だし絶対勝たないといけない、という思いはありました。当時の大阪桐蔭はまだ名前も売れていなくて、チャレンジャーという感じでしたしね」

 大阪府大会を勝ち抜き手にした甲子園切符。3年夏の夢舞台で、辻内さんの運命を変える出来事が起きる。春日部共栄高との初戦。1回、先頭打者に投じた5球目に、3万4000人が思わず息を呑んだ。場内の電光掲示板の球速は「152km」。前年春のセンバツから表示されるようになっていた球速で150kmを超えたのは初めてのことだった。

 ネット裏に集まっていたプロ野球のスカウト陣が手元で計測した球速は微妙に違っていた。その中で、最も速かったオリックスのスカウトが計測した「156km」が報道の見出しになった。その数字は当時、プロ野球も含めた国内の左腕最速記録でもあった。「MAX156km左腕」。それは、辻内さんの生涯にわたる代名詞となった。

代名詞となった「MAX156km」

「軽く……本当に軽く投げた1球でした。そもそも試合に凄く緊張していて、地に足がついていなかった。あんなお客さんの前で投げたこともなかったし、終始フワフワしていました。投げていて楽しかったし、みんなに見てもらって試合ができる喜びを感じた。今でも凄い経験になったなと思っています」

 2回戦では19三振を奪い、大阪桐蔭高はベスト4進出。辻内さんは登板した5試合で当時歴代2位の記録となる計65三振を奪い一躍、全国から注目を集めた。2005年秋、高校生ドラフトで、オリックスと競合の末に巨人が1位指名権を獲得。球団では松井秀喜以来となる、高卒での契約金1億円(推定)という鳴り物入りで入団が決まったのだ。そこから、本人の予想も超えた“大狂騒曲”が始まる。

「ドラ1ということで何をするにも記事になってしまうという、自由がなかったというところはすごく大変でした。でも、報道に紐づいているのはファンの方たちなので、そうやって取り上げてもらえることは嬉しかった。苦しかった部分と、嬉しさと半分ずつくらいでした」

「巨人のドラ1」の重圧

 当時の「巨人のドラ1」は現在より俄然、注目度が高かった。甲子園スターの入団ということもあり、辻内さんの一挙手一投足は大きな記事になった。当時、スポーツ紙の巨人担当記者だった筆者は、おっとりとして優しい印象の18歳が大きな波に呑み込まれていくことに、少しの不安を感じていたことを覚えている。

「チームには偉大な大先輩がたくさんいる中で、ドラ1で取り上げてもらって、色々な葛藤もありましたね。嬉しさと、戸惑いと……」

 2006年秋、辻内さんは「ハワイ・ウインター・ベースボール」に派遣される。アメリカや中南米の投手からヒントを掴み、現地で投球フォームの改造に着手。入団直後から痛みを抱えていた左肩や左肘に負担の少ないフォームを身につけ、実戦でも好成績を残したことから大きな手応えを得ていた。

「今思い返しても、あの時は一番調子が良かったと思います。(コーチとして派遣されていた)斎藤雅樹さんにも凄く褒められたんです。それが嬉しかったし、自分でも、これならやれるんじゃないか、と自信が湧いていました」

運命の分かれ道だった「違和感」

 翌07年、プロ2年目のキャンプで初の一軍スタートを掴む。飛躍への大きなチャンス。しかし、そこに落とし穴が待っていた。実はキャンプイン直前、左肘に痛みを覚えていたのだ。

「ウインター・リーグが終わってから少しだけ違和感があって、治さないといけないと思っていたんですけど……。一軍スタートということでそれを言い出すことができなかった。若手はキャンプのスタートから状態を上げてアピールしなければいけないし、若手がノロノロしていたら何をしているんだ、って言われてしまう。そういう時代でした」

 痛みをひた隠しながら、左腕は第1クールから2日連続でブルペン入り。中1日空けた3度目のブルペン投球では、原監督の見守る前で「ラスト1球」になかなかOKが出ず20球を要し、計82球も投じた。その第1クール最終日、悲劇は起きた。

「肘が曲がったままブチって…」

「投球練習をしようとしたら球が握れなかった。力が入らなかったんです。肘が曲がったまま、ブチっていう感じで止まってしまった。切れたんだな、と思いました。でも後ろで監督も見ていたので、その状態のまま確か2球くらい投げたんですよ。でも無理で……」

 宮崎から急きょ東京に戻り、病院に直行した。あまりの痛みと尋常ではない肘の状態から、覚悟はしていた。結果は「左肘靭帯断裂」。そこから、辻内さんの長い闘いが始まった。

〈つづく〉

文=佐藤春佳

photograph by JIJI PRESS