5月14日、劇作家の唐十郎(享年84)の告別式が執り行われた。後年は大学の教壇に立ち、文化功労者に選出されるなど“文化人”的なイメージもまとったが、若き折の武勇伝は枚挙にいとまがない。間近に接した元看板俳優が振り返る“武闘派伝説”――。
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「唐さんのコミュニケーションの取り方は、実に独特でしたね」
とは、唐が設立した劇団「状況劇場」の初期メンバーで看板俳優の一人だった、大久保鷹氏(80)である。
「今の時代では、到底通用しないものだと思います」
と笑う。
ママに“出刃包丁貸してくれ”
唐氏は1940年、東京・上野は下谷万年町の生まれ。明治大学で演劇を学び、卒業後、状況劇場を立ち上げた。新宿・花園神社に張った紅(あか)テントは話題を呼び、「アングラ演劇の旗手」と呼ばれるようになった、ちょうどその頃のことだ。
「僕と唐さんが新宿ゴールデン街のお店のカウンターの奥で飲んでいると、ふらっと野坂昭如さんがいらしたんです」
と大久保氏が回想する。
「出入口に一番近い席しか空いておらず、野坂さんはそこに座った。焼酎を飲みながら本人がいると知らず“最近、新宿にカラとかガラとかいうのがはやり出したな”。ちょうど唐さんがマスコミに出始めた頃でした。続けて“ガラっていうのはよく新宿に来るんだよな”などと言われ、唐さんは頭に血が上ってママに“出刃包丁貸してくれ”と」
包丁を受け取った唐はカウンターに突き立て、「さっきからうるせえけど、カラってのは俺だ」と、野坂に近づいていった。
「野坂さんはバーッと逃げ出す。唐さんも追いかけてね。しばらくして二人が帰ってきた。その時は肩を組んでたんですよ」
寺山修司ともバトル
劇団「天井棧敷」を率い、同じくアングラ演劇の旗手と呼ばれた寺山修司ともバトルがあった。
「僕らが渋谷で芝居をやることになったんです。渋谷といえば、警察署の並びに『天井棧敷』の事務所がある、寺山さんのシマ。で、僕らはあいさつの花を送りました」
その返礼で寺山が送ってきたのは葬式用の黒い花輪。
「これには伏線があった。寺山さんがその前に芝居を打った時に唐さんが花を送ったんですが、それは商店街のパチンコ屋からかっさらって届けたものだった」
寺山としてはそのお返しで、ユーモアのつもりだった。
「でも当時は血気盛んだったから“行こうか”という話になった。で、唐さん、僕、四谷シモンなどで天井棧敷に行ってね」
寺山の母の喫茶店に突撃…窓を粉々に
20人ほどが殴り合いとなり、勢い余ったシモンは1階の喫茶店のガラス張りのウインドウに置物を投げ、粉々にしてしまったという。
「大騒ぎになり、並びが警察署だから捕まって一晩泊まりましたよ。こっちは7人、向こうは寺山さん含め2人くらいかな。でも翌朝、唐さんと寺山さんは留置場で“よぉ”なんてあいさつしている。茶番ですよ。唐さんにとっては芝居の一部なんです。これで終わりと思ったら、誤算は後日、寺山さんのお母さんから弁償代を請求されたこと。店のオーナーだったみたいですね」
映画監督・大島渚にアピールしたいと彼行きつけのバーに押しかけ、たくわん石でボトルを破壊したことも。それでも後に大島の映画に出演することになるから不思議である。
団員が辞める時にはいつもひと悶着が
一方、劇団員に対しては、
「ダメ出しで灰皿を投げる蜷川幸雄とは違い、稽古や芝居の後はみんなで風呂に行く。そこで“あそこはやり過ぎだよ”みたいな話が出るけどそれで終わり。その後は飲みに行った」
それだけ愛情が深かったゆえだろうか、団員が辞める時はいつもひと悶着が。
看板俳優の一人・小林薫が退団を告げた際、唐は夜中に彼のアパートに行って説得を試みようとしたものの、小林は帰宅しない。で、
〈出刃包丁を下の家から借りてきて座布団の下に入れ、その上にあぐらを組んだ〉(『唐十郎血風録』より)
結局、朝まで小林は帰ってこなかった。
「薫は唐さんがそれぐらいすると分かっていたんでしょう。僕も辞める時は手紙にその旨を書いて郵送し、遠方へ“逃亡”しました」
「グラスを自分の頭に砕けるまで押し付け…」
「状況劇場」解散後は「唐組」を設立、公演を続ける。一方、小説家としても『佐川君からの手紙』で芥川賞を受賞している。
その後も武闘はやまず、
「98年、あるパーティーの2次会で、唐さんと同席したんです」
と苦笑するのは、文芸評論家の高澤秀次氏。
「たまたま真向いに座ると、いきなり唐さんが“てめえこの野郎!”と僕の眉間を殴ってきた。初対面ですよ。後で事情を聞いたら、僕と別の人物を間違えたらしいんですけどね。その後、唐さんは傍のグラスを自分の額に砕けるまで押し付け、“これでおあいこだろ”と血まみれになって出て行った」
10年ほど前には自宅前で転倒して頭を打ち、以後は療養生活に。
「それでもテント芝居を見に来ていた」(大久保氏)
亡くなった5月4日は、奇しくも寺山の命日。今頃はあの世で早くも“一戦”交えているところだろうか。
「週刊新潮」2024年5月23日号 掲載