常備薬や殺虫剤のような存在

 ドラマの節々でユースケ・サンタマリアが演じる陰陽師、安倍晴明が近未来について重要な予言をする。それも今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の特徴だといえる。6月23日に放送された第25回「決意」でも、謎めいた言葉を藤原道長(柄本佑)に投げかけた。

 それはこんな言葉だった。「災いの根本を取り除かねば、なにをやっても無駄にございます」「帝をいさめ奉り、国が傾くことを防げるお方は、右大臣様しかおられませぬ」「よいものをお持ちではございませぬか。お宝をお使いなされませ」。

 道長が持っている「よいもの」「お宝」とはなにか。それは第26回「いけにえの姫」で明らかになる。晴明が言及したのは、道長の長女である彰子(見上愛)のことで、彼女を一条天皇(塩野瑛久)のもとに入内させるしか、国が傾くのを防ぐ方法はない、と晴明は道長に告げたのである。

 安倍晴明といえば、映画や漫画にも登場し、陰陽師の代名詞として知られているが、いったいどんな人物だったのか。そこを掘り下げる前に、道長の時代における陰陽師とはどんな存在だったのか、明らかにしていたほうがいいだろう。

 陰陽師とは、後述するように、時代によっても位置づけが異なるが、ごく簡単にいうと、独特の占法をもって吉凶を占う人だといえる。そして、道長の時代、すなわち平安中期以降の貴族たちは、日常的に陰陽師を必要としていた。それは現代の私たちにとっての、常備薬または、ゴキブリなどが出たときに退治する殺虫剤にもたとえられる存在だった、といってもそう外れてはいない。

国家の官人から個人を対象とした陰陽師へ

 平安貴族たちは、日常生活のなかで少しでも変わったことがあると、すぐに怪異、つまり道理を超えた異様なことだとみなした。体調の異変はもちろんだが、些細な例であれば、鳥が屋内に飛び込んできたとか、廊下を蛇が這っていたとか、食器がネズミにかじられたとか、そんなことでも怪異だとみなした。

 現代の密閉された家に住んでいれば、たしかにそれらはレアなことかもしれないが、『光る君へ』を観ていればわかるように、当時の建物は、外部とはほとんど遮断されていなかったのだから、鳥だろうと、カブトムシだろうと、タヌキだろうと、なにが侵入したところで不思議はなかった。しかし、当時の人にとってはそれさえも怪異で、いわば怪異に囲まれて生活しているといっても過言ではなかった。

 しかも、彼らはこうした怪異をなにかの予兆だと考えたのだが、具体的になにを意味するものであるかは、素人には判断がつかない。そこで陰陽師に、それぞれの怪異がなんの予兆であるかを占わせた。鼻やのどに異変を感じたら、早めに風邪薬を飲むのと同じような感覚で、貴族たちは日常的に陰陽師に依頼し、占わせたのである。

 そんな陰陽師とは、元来は古代の律令制における官職のひとつだった。天武天皇が中務省に陰陽寮という役所をもうけ、そこに天体の動きを観測して吉凶を占うための占星台を設置したことにはじまっている。陰陽寮には事務方のほか、陰陽博士、天文博士、暦博士、漏剋博士という教授職がいて、それぞれの下に10人ずつの学生が置かれた。そして、それ以外に陰陽師という職掌が6人いた。

 宗教学者の斎藤英喜氏によれば、その当時は「天体現象の異変は天の支配者(天帝)が地上の支配者(天子)に下す予兆であり、したがって地上の支配者は、つねに天体の運行に異常がないかをチェックしなければならない」という思想があり、そのためのチェック機関が陰陽寮だったという(『陰陽師たちの日本史』角川新書)。

 したがって、律令国家では国家行事として、穢れを祓う儀式が行われていたのだが、それは10世紀後半から形骸化していった。

遅咲きながら天皇や最高権力者の信頼を集めた

 その理由を、斎藤氏はこう書いている。「個人としての障りや罪、穢れを意識すればするほど『大祓』という国家単位の儀礼では、自分の障りや穢れは消去できないという自覚が生まれてしまう。その背後には、『平安京』という個人が生きる都市社会の成熟があった。都市に生きる貴族たちの日常生活で発生する穢れには、もはや『大祓』という国家儀礼では対処できない、というわけだ」(前掲書)。

 こうして道長の時代には、貴族たちがなにか怪異に出逢うたびに、それを占い、穢れを祓う役割を、陰陽師たちが一手に引き受けることになった。彼らはいまや、律令国家の官職を超え、個人を対象に呪術的祭祀を行うようになっていた。その代表が安倍晴明だったのである。

 晴明が生まれたのは延喜21年(921)だとされる。『光る君へ』の第25回で、晴明が道長に進言した時期は長徳4年(998)の正月だから、このときすでに70代後半だったことになる。亡くなったのは寛弘2年(1005)で、85歳まで現役だったのは、当時としては驚異的なことだった。

 父は大膳大夫(朝廷で臣下への食事を司る職)の安倍益材だと伝わるほかは、晴明の若いころのことは一切わかっていない。母が信太の森の妖狐だ、少年時代に鬼が来ると察知して師匠を救った等々は、もちろん後世の創作である。

 史料で最初に確認できるのは、40歳のときに陰陽寮の天文得業生(天文博士から天文道を学ぶ学生の職)として祭祀に関わったという記録だ。このとき村上天皇から占いを命じられているから、才能が認められつつあったのだろうが、40歳でまだ「学生」だった。 師匠であった賀茂保憲のあとを受けて天文博士に昇進したときには、もう52歳になっていたので、かなりの遅咲きだったといえる。

 ちなみに、天文博士とは、天体に異変を見出したとき、その現象からなにかの予兆を読みとり、密かに天皇に奏上する役割を負っている。晴明は熟年から老年にかけ、こうして天皇と接触する機会を得た。その際、個人的に磨いた技能や呪力も評価され、有力な貴族たちと私的な関係を結び、彼らの救済を担うことになったのだろう。とりわけ、花山天皇や一条天皇、藤原道長らの信頼を集めたため、名声をきわめることとなった。

バビロニアやメソポタミアとのつながり

 ところで、道長ら平安貴族たちは、仏教を厚く信仰するケースが多かった。それは奈良時代における鎮護国家の仏教とはうって変わり、あくまでも個人の救済を担ってくれるものとしての仏教だった。具体的には、病気や災厄を払いのけ、現世において命を長らえるためには、密教の加持祈祷に頼った。一方、死後において救済されるために、浄土教の教えにしたがった。

 道長はこれらの二つに大きく頼ったことで知られるが、同時に安倍晴明に全幅の信頼を寄せた。つまり、陰陽師は当時の貴族たちの信仰を補完し、現世および来世における救済を完璧にするための存在だったということもできる。

 また、晴明は国家の官人である天文博士出身だから、彼の天体観察や占星術は「国家占星術」をベースにしている。前出の斎藤氏の著書によると、「国家占星術」の源流は古代中国にあり、古代中国にはインド系の占星術も伝わっていたという。そして、インドで発達した個人占星術はギリシャに起源があり、さらにギリシャ占星術のルーツをたどると、古代バビロニア、さらには紀元前3000年前後に栄えたメソポタミア文明にまで行き着くという。

 安倍晴明の陰陽道は、じつは紀元前の西方の文明に源流があったというのだ。こうした星占いを通じた文明の交流史が、道長らの周囲に渦巻いていたと思うと、感慨深いではないか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部