政治評論家の屋山太郎氏は、“けんか太郎”の異名をとった。時事通信の記者時代から腹立たしいと感じたことを次々と問題提起。どんな相手にも臆さなかった。

 1972年の自民党総裁選で田中角栄氏の派閥が他派に現金を渡す場面を目にする。かつて田中氏が地図に赤線を引く姿も目撃。新幹線の建設案だった。予定地を盟友に買い占めさせていたという土地買収のスキャンダルなど政治家の倫理に照らして恥ずかしいと思わないのか、と屋山氏は田中氏に記者会見で質問した。

 国家の将来について目標を掲げ、どう実現させるか政策の是非を議論するのが国会だと、屋山氏は政治家の倫理観の欠落と先見性のなさ、政党の大衆迎合を危惧して発言を続けた。政治評論家の多くは政局を語るが、屋山氏は政策を論じる稀有(けう)な存在だった。

国益、公益のために

 ジャーナリストの櫻井よしこ氏は言う。

「国益、公益のため役に立っているか、無駄なところはないだろうかとお考えでした。全体の枠組みを捉え、なぜこのような問題が起きているのかを分析していました。日教組や国鉄を早い時期から批判し、社会に問いかけています。脅しを受けても論を戦わせた」

 自宅は放火に備え脱出口を作っていた。

「屋山さんは常に自分の名前を出して書き、批判する相手の実名も示す。ただし相手の私生活には触れない、との作法を続けていました。初めて私に長い連載の依頼が来た時、まず屋山さんに相談しました。必ず引き受けなさい、正面から向き合う覚悟があれば書けると助言して下さった」(櫻井氏)

 32年、福岡市生まれ。東北大学文学部仏文科を卒業し、59年、時事通信に入社。後に外交評論家に転じた田久保忠衛氏は良き先輩で生涯の友に。自民党担当の政治記者として頭角を現す。

 中選挙区制度は複数の自民党候補が争うため、党の政策ではなく資金力の競争になると考え、屋山氏は小選挙区制度に改めることを主張。これも田中氏の金権政治を間近で見た影響だ。

相手が首相でも…

 77年、日本赤軍により日航機がハイジャックされるダッカ事件が発生。福田赳夫首相は「一人の生命は地球より重い」と超法規的措置により収監中の過激派を釈放、身代金も支払った。

「屋山さんは福田さんに信頼され親しくしていましたが、国際社会ではありえない、と関係をきっぱり断(た)った。相手が首相でも筋の通らないことは許さない潔さがありました」(櫻井氏)

政治家に食い込む力があった

 時事通信の後輩記者にあたる政治評論家の田崎史郎氏は振り返る。

「君には国家観がない、と怒られたことがあります。屋山さんは自身の考え方をしっかり持ち、積極的に発言していました。政治家に食い込む力もありました」

最後まで衰えなかった「発言力」

 81年に発足した第2次臨時行政調査会(土光臨調)の委員に。国鉄本社で臨調の窓口役だった葛西敬之氏と協力、中曽根康弘政権下における国鉄分割民営化の実現に大きく寄与している。

 87年に退社、政治評論家に。官僚が国家運営を主導していると「官僚内閣制」という言葉を用いて批判。官僚と族議員の癒着、官僚の天下り問題を具体的に挙げた。脱官僚、政治主導、改革が核となるテーマだった。民主党政権に期待を抱いた時期もある。

 安倍晋三首相による内閣人事局の設置など、公務員制度の改革の進展を政治主導が可能になったと高く評価。それだけに死を悼む気持ちは強かった。

「意欲があり実行する人を応援していました。“国益を考えられるか、言動が国際的に通用するか”を大切にされていた」(櫻井氏)

 2024年4月9日、肺気腫のため、91歳で逝去。

 発言力は衰えず、今年に入っても月刊誌「正論」で連載を続けた。政治資金問題では、こんなインチキが許されるのかと自民党を糾(ただ)した。屋山節は健在だった。

「週刊新潮」2024年5月2・9日号 掲載