「柔道を始めたのは10歳の時。生まれ育った福田町(ふくでちょう・現静岡県磐田市)の柔道教室です。1週目に、受け身も知らずに投げられて鎖骨を骨折。普通ならそれでやめるところですよね」

 溝口紀子が笑う。

「悔しかったんですねえ。1週間後に石こうギプスを取ったら、骨がくっついていた。それで稽古に戻って」

 元々男子と比べても体格が良かった。小学校6年の頃には静岡県内で溝口に勝てる男子はいなくなった。

「その頃から、男女差別というか“女性軽視”をすごく感じ始めました。私に負けた男子選手が指導者にボコボコに殴られる。私は自分のせいで男子が殴られるのが耐えられなくて……」

 オンナに負けて情けない、という指導者の論理。

「ジェンダーギャップを私が意識したきっかけです」

 溝口は1971年生まれだから、80年代前半の話だ。

「強くなるうち、“男として認められるしかない”と考えました。私が男なら、相手が怒られることもない。男子と同化しようと」

 中1で静岡県大会女子無差別級に優勝。練習では男子にも負けなかった。初段も取った。だが、

「女子の帯が男子と違った。黒帯でも、女子の帯には白い線が入っていた。それが日本の柔道界でした」

 世界では女子柔道の競技化が進み、80年にニューヨークで初の世界選手権が開かれた。外圧を受け、「女子はあくまで護身術」として女子の試合を禁じていた日本でも83年に福岡国際女子柔道選手権が始まった。

 84年第3回女子世界選手権52キロ級で山口香が日本人初の金メダルを獲得。85年福岡国際でも優勝し「女三四郎」と呼ばれた。

「山口さんのようになりたい! 女子柔道もオリンピック種目になりそうな流れの中で、“男になるしかない”という思いが“オリンピック”に向かいました」

山口香との死闘

 溝口の転機は85年、中2の時だ。憧れの山口は52キロ級。溝口は56キロ級だった。

「全日本選手権で大学生の中西美智子さんに寝技で負けた。52キロ級では同じ中2の江崎史子さんが山口さんに惜敗したけれど善戦。私は勇気をもらった……。きっと自分は世界一にはなれる。どうせなら山口さんを倒したい! そう思ったんです。憧れが目標に変わった瞬間でした」

 実質体重は54キロだから2キロの減量は苦もないと思った。翌86年、念願の山口との対戦が決勝で実現した。

「立ち技なら絶対勝てると思っていたら、寝技に入った途端、山口さんの細い腕が絡みついて蟻地獄に落ちるみたいに絞められ、半落ちしました」

 送り襟絞め。悔しかった。それからは徹底して寝技を強化、後に「まむしの溝口」の異名を取る。

 オリンピック出場までの間に、溝口は進学先の選択で2度の転機を経験した。高校進学時には、柔道強豪校からの誘いを断った。すると、他の高校からも村八分のように門前払いを食らった。公立の進学校・浜松西高に進むが、男子部員たちは帯を丸めたボールで野球に興じ、それで稽古を終えるような緩い柔道部だった。

 87年、高1での全日本選手権も僅差で山口に負けた。公開競技となった88年ソウル五輪の代表に山口が選ばれ、溝口は補欠選手として同行した。

「補欠の私は山口さんの練習パートナーでした。毎日100本以上、山口さんに投げられた。寝技も絞め技も受けた。それで山口さんの癖が全部分かりました。寝技は完コピできるほど体で覚えました。先輩たちが初めて五輪選手になっていく過程を近くで全部見た。ロールプレイングゲームをやっている感じで、それも大きな経験でした」

 大学進学時も、筑波大など伝統ある大学を選ばず、全日本の合宿などで「自分にいちばん合う」と感じた野瀬清喜監督のいる埼玉大に進んだ。古い道場には、女子の更衣室もトイレもない。決して恵まれた環境ではなかった。だが1年の時、溝口が福岡国際で金メダルを取ると、学長が大喜びで施設を改修してくれた。パイオニア精神が生かせる環境が溝口には合っていた。

国王観戦で異様な雰囲気に

 ソウル五輪の4年後、92年バルセロナ五輪から女子柔道は正式種目になった。代表争いは厳しい闘いだった。成長著しい同期の植田睦(筑波大)との決勝は、旗判定にもつれ込む激戦。だが、終始攻め続けた「まむしの溝口」に旗が上がった。

 金メダル間違いなしと自他ともに認めて臨んだ本番は、決勝で伏兵アルムデナ・ムニョスに敗れ、銀メダルにとどまった。ムニョスは地元スペイン期待の星。試合前、会場にファン・カルロス国王夫妻が入ると異様な雰囲気に包まれた。攻めるふりはするが決して前に出て来ない、組ませてくれないムニョスに主審はなかなか指導を与えない。しびれを切らして得意の内股に行った溝口が逆に効果を取られ、そのまま試合を終えた。96年のアトランタ五輪でもケガで雪辱を果たせなかった。

〈金〉を取れなかった悔しさが、引退後フランス代表コーチを務め、現在は大学教授の傍ら、袋井市スポーツ協会会長を務めるなどスポーツ改革の先陣を担う原動力かもしれない。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

「週刊新潮」2024年3月21日号 掲載